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劇団四季版『バケモノの子』が素晴らしい件!

今回は2023年最後のミュージカル感想について話していきたいと思います。
ということで、今回は「劇団四季」による『バケモノの子』

こちらを鑑賞してきたのでその感想を語ります!


毎回内容の濃いパンフレット
キャスティングはこちら(12月23日土曜日)

『バケモノの子』について

あらすじ

この世界には、人間の世界とは別に、もう1つの世界がある。バケモノの世界だ。

バケモノ界・渋天街では、長年バケモノたちを束ねてきた宗師が、今季限りで神に転生することを宣言。
強さと品格に秀でた者があとを継ぐしきたりがあり、数年後に闘技場で催される試合で、次の宗師を決めることとなった。
候補者は、とにかく強いが乱暴者の熊徹と、強さも品格もあわせ持つ猪王山。
次期宗師争いは、いよいよ本格的になろうとしていたが、熊徹は、宗師より、弟子を取ることを課せられてしまう。

その頃、人間界・渋谷。9歳の少年・蓮は、両親の離婚で父親と別れ、母とも死別。ひとりぼっちの日々を送っていた。
行くあてもなく途方に暮れていたある夜、蓮は、弟子を探していた熊徹と出会い、渋天街に迷い込む。
独りで生きるための「強さ」を求めて、蓮は熊徹の弟子となることを決意。「九太」という名前を付けられることとなった。

当初はことあるごとに、ぶつかり合う2人だったが、奇妙な共同生活と修行の日々を重ねて互いに成長し、いつしかまるで本当の親子のような絆が芽生え始める。

一方、猪王山にも、九太と同世代の息子・一郎彦がいた。
父の存在が、何よりの誇りであり、父のようになりたいと願う一郎彦。
しかし、いっこうにバケモノらしいキバが生えてこないという悩みを抱き続けていた。

時は流れ、九太と一郎彦は青年へと成長。
17歳の九太は、熊徹の一番弟子としてその強さを知られるようになっていたが、バケモノと人間のあいだで「自分は何者か?」と揺れ動いていた。

ある日、偶然人間界に戻った九太は、高校生の少女・楓と出会って新しい世界を知り、自身の生きる道を模索していく。
やがて訪れた次期宗師を決する闘いの日。人間とバケモノの二つの世界を巻き込んだ大事件が起きてしまう。

劇団四季公式サイトより引用

予想を超えた作品の仕上がり!

「劇団四季」の新しい試みとして、生まれた作品

今作品は「劇団四季」の創立者の理念を具現化した作品だ。
元々の劇団創立の理念として、創立者の浅利慶太の言葉「日本の現代文化に重大な問題はたった一つ。明治維新以降の変化の中で、東西文化が融合する地点を見つけることだ」
これに挑戦した作品だと言える。

日本で生まれたアニメ『バケモノの子』を西洋のミュージカルという文化で表現すること、これぞまさに創立者の言葉に立ち返り、新しい道を模索するという劇団の姿勢の現れの作品なのだ。

ちなみにこの企画自体は2018年に劇団内で「企画準備室」が立ち上がり、中でも早い段階で細田守監督作『バケモノの子』をミュージカルしたいという意思決定はされていたとのこと。

そして劇団内では、様々な国産の漫画などを原作として、新しい作品企画を立ち上げているのだ。
これには「新しい可能性の模索」という意味合いが大きいが、やはり2020年の「コロナ禍」での苦い思いでも教訓となっている。
というのも、ライセンス契約して演目している作品、主にディズニー原作の演目は海外スタッフの了承なしに演出を変更することが出来ず、かなりの制約を課されていることなどもあったとのこと。

そのため今後しばらくは『ゴースト&レディ』など国産作品を原作にする方向にシフトしていくのかも知れない。

ちなみに評論とは関係がないが、公演パンフレットにて細田守が本当は『龍とそばかすの姫』(2021)は、完全なミュージカルとして描きたかったらしいが、断念。
しかし今回の「劇団四季」との交流で、ミュージカルのことを学んだとも述べており、彼の最近の発言から推測するに、おそらく次回作はミュージカルアニメになるのでは?と予想している。

舞台装置で語る

さてそんな『バケモノの子』だが、この作品は大きく二つのパートに分けることができる。
一つが九太編、つまり主人公の蓮が「渋天街」に迷い込み、ひょんなことから熊轍の弟子になる、そして一人前になっていく過程のパート。
もう一つが、そこから8年が経過し、九太が現実世界に戻り、そして二つの世界を巻き込む危機に立ち向かうパートだ。

これまで『ノートルダムの鐘』『アナと雪の女王』と四季作品を見てきて、ファンタジー色の強い世界観の再現は、間違いなくできると考えていたが、個人的には現実の「渋谷」をどう表現するのか?
そこに注目して作品を見ていた。
結論から言えば、それが見事だった。
「舞台装置」を使い物語を語るというとんでもない表現の方法を確立していたのだ。

というのも今回の作品は『アナと雪の女王』と同じく基本的には世界観を舞台装置で見事に作り上げている。

背景に映像を投影をするのはもちろん、舞台に沿った半円形の「ルントスクリーン」映像を投影することで、前後の奥行き、世界観の広がりを見せる工夫が随所に散りばめられていた。
その分観客に「舞台」であるという忖度を求めるというよりかは、可能な限り世界観を舞台上で表現しており、没入感は高い作品になっていた。

個人的には熊轍の家を回転する舞台装置での見せ方が、まるで映画のカメラワークのように見え、その手際の良さにも非常に驚かされた。

逆に目を見張ったのは、一幕目の序盤とラスト付近での「現実世界」描写はだ。
「バケモノの世界」と比べると、世界観を作り込むというより、「舞台装置である」ということがモロに見える世界観になっていた。
確かに渋谷の街並みを舞台で表現するのは難しいかも知れないが、例えばスクリーンに実際の街並みを投影したり、セットも「鉄です」と言わんばかりの無機質なものを出すのではなく、きちんと可能な限り作り込んだものを持ち込むことも可能だったはずだし、できるはずだ。

ただここで舞台装置の表現で「二つの世界」に落差をつけていることが、結果主人公「九太=蓮」の心理描写と見事に繋がっていることに気付かされるのだ。

彼にとって「現実」は序盤は親を亡くしたことで、自分が世界から隔絶されてしまったという思いを持っている。
そして成長後も帰ってはきたものの、本当はこの世界の住人のはずなのに、ここは「自分の世界ではない」という思いで世界を見ている。

つまり彼が「世界と同化」していないからこそ、「現実世界」の描写をあえて「作り物」のように見せることで、彼の心理状況を見事に語っているのだ。

原作を補完する要素も!

今作も原作であるアニメ版が2015年の作品ということもあり、その部分で弱いと思われる点をきちんと補完していた点は注目したい。

というのも『バケモノの子』は初見時、再鑑賞時含めて毎回、実は九太=蓮と対になる存在、一郎彦の展開に毎回「とってつけた感」が否めない。
というのも、彼も実は人間でありがらバケモノに育てられた「バケモノの子」であることが判明する。
そして彼は心の闇に支配され暴走する。

確かに彼だけは「バケモノ世界」においても人間然とした姿を唯一しており、よく考えれば違和感を持てるようになっているが、しかし唐突に青年になり、性格が急変している。
そこに彼が彼なりに悩んでいる描写などは一切なく、割と唐突な印象を与えられ、物語の後半にかなりがっかりさせられた。

しかし今回の四季版は、もう1人の主人公であるかのように一郎彦にスポットを当て、九太=蓮と「光と闇」の対比として描くことで、後半の納得度が高くなるように構成し直している。

そして一郎彦は、親である猪王山が彼に「本当は人間である」ことを伝えておらず、自分は「バケモノ」のような姿になれないことに悩み続けていた。
要はアイデンティティがなく、世界に彼も居場所を見出せずにいたのだ。

この2人の対比を今作は最終的に回収していく形に終結していく今作品。
原作ではある意味で九太=蓮が「親離れ」していく結末になるが、今作は九太=蓮が、自分の存在とは何か?
その問いかけに向き合う話になっていく、そして「タイトル」を回収するのだ。
そのためにどうしても一郎彦を描き込まなければいかず、彼周りの描写を増やしたのは、見事だと言える。

ただし今回、ミュージカルという手法上仕方ないが、確かに作品として少々不満になる場面もある。
それが楽曲でいうところの「修行」という場面だ。

ここはパンフレットにもあるように、ミュージカルの楽しみに満ちたパートで、「これぞミュージカルの気持ちよさ!」というのを存分に発揮するシーンだ。
「イロハ、イロハ、イロハのイ」と繰り返されていく気持ちよさは抜群だ。
ここが今作のミュージカルとして最高潮とも言えるシーンだ。

そこを優先しての演出なのは100も承知であえての指摘だが、原作でここに該当するシーンで多々良(たたら)、百秋坊(ひゃくしゅうぼう)から「弟子とは何か?」を九太は教えられるシーンになっている。
しかし、初め九太は反発し「バケモノ世界」でまだまだ同化できないことが描かれる。
そして周囲からも「人間」という存在であるから、全く認められず、なんなら差別的なイジメに遭ってしまうことも描かれる。

だが、今作は周囲のバケモノ世界の住人が九太に「掃除・洗濯・炊事」のやり方を教えにくるなど、割と最初から世界に認められてしまうのだ。

そのため原作にあった、九太の努力で周囲に認められる。
その過程から起こる感慨が大きく減退してしまっている。

特に原作で印象的なシーンがカットされてしまっているのも気になった。
というのも一郎彦の弟、二郎丸。
彼は初め、周囲の友達を連れ立って、九太を「人間だから」と虐めていた。
だが九太の成長を目にして、彼を認め「非を詫びる」そして友人になるのだ、そしてそのように徐々に「バケモノ世界」で周囲から認められていくのだ。

だが、先ほどの「修行」のシーンで最初から九太は周囲にすでに認められているし、気づいたら二郎丸は九太を認めていることになってしまっていた。

もちろんミュージカルシーンの華々しさ優先の演出をする、そのための改変であることはわかっているが、二郎丸とのエピソードは欲しかったと指摘しておきたい。
(その変わり、4人で世界を巡るシーンのカットは英断だったと思われる)

【まとめ】原作の弱さをきちんと補完しているので満足!

とは言いつつも全体としては九太=蓮と一郎彦の対比という軸が後半に展開されるので、原作にあった「急な展開だな」という感じは全くなかった。
というより原作の弱い部分を補完していて、個人的には大満足な出来上がりとなっていた。

そして個人的には熊轍、猪王山のバトルシーンも見どころだ。
両者の体が巨大化するパンフレット曰く「ビーストモード」描写だが、ここも3人の操車が登場し巨大な体躯を表現しており、この辺りは舞台であるという制約を「工夫」で補う面白さが見えるシーンだ。

というか熊轍が映画から飛び出してきたように、「本当に熊轍がいる」と思わされるほどに、というか演者全てが『バケモノの子』世界の住人として実在している、そのクオリティはぜひその目で確かめてほしい。

最後の一郎彦変身する「鯨」との最終決戦も、原作ではやや唐突な気もさせられたが、舞台ではその表現が本当に見事で、今作の最大の「見せ方の工夫」だったのではないか?

とにかく原作に負けない作品を作りたいという作り手の意思が見える非常に素晴らしい体験をさせてもらえた!

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