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「私たちは美しいものを大切にできなくなった」ー蜷川実花展から

蜷川実花展にいってきた。

混雑を避けるためか、入場は時間帯ごとに完全予約制となっていたが、土曜日だったために夕方でももの凄い盛況ぶりだった。

EiMが手がけるインタラクティブな空間設計や映像作品は素晴らしかったけど、展示作品よりも私が衝撃を受けたのは来場者の行動だった。


会場内は基本的に撮影可能となっているのだが、会場に足を踏み入れた瞬間、(私と今回の展示会に誘ってくれた先輩以外)ほぼ全員がスマホを取り出し、入口にある作品を一斉に撮り始めた。

まるでフラッシュモブかと思うくらい、鮮やかで異常な光景だった。
美しい造花たちにカメラを向けてみんな無我夢中で撮り続ける。

前に進もうと思ってもなかなか先に行けない。

人が多いから、というのもあるのだけど、全員が写真を撮るためにいちいち止まるので、一向に進まない。

今回は大規模な映像作品も展示されていて、来場者は座ったり寝転んだり、好きなように鑑賞することができるのだが、寝転んだ状態でも一生懸命スマホをスクリーンに向けている人がいた。
それも1人だけでなく、何人も。

《Intersecting Future 蝶の舞う景色》という巨大迷路のような造花の空間はとても美しかったが、写真を撮る人たちで渋滞していて、あまりじっくり見ることができなかった。

「入口では立ち止まらずにお進みください」というスタッフの方の声が虚しく聞こえる。
蜷川作品を見にきているのか、それともこの集団行動的に写真を撮り続けるギャラリーを見にきたのかわからなくなるほどだった。

私たちの前にいたカップル(と思われる二人組)は、人が流れるのを待っている間、Instagramで展示会場であるTOKYO NODEの位置情報をみて他の人がどんな投稿をしているのか確認していた。自分たちは今、その場にいるのにだ。

もちろん楽しみ方は人それぞれだと思うのだけど、あの空間に本当の意味で「没入」できていた人は一体どれだけいるのだろうか。

帰りのエレベーターでは大学生と思しき集団が、カメラロールから今さっき撮った写真を捨てたり、お気に入りをつけたりして選別していた。
これからSNSに投稿するようだった。



ちょっと前まで「体験」というのは、どこかに出かけたり、誰かに会ったり、ものを食べたり、その瞬間の行動を全うすれば良いはずだった。
しかし、今は行動を記録し、SNSに投稿するまでが「体験」になっている。
投稿を通して「これをしました」と、周りに証明しないといけない。

人は美しいものが大好きだ。
だから、見つけたらすぐに切り取って自分の「体験」として見せたくなる。

私は美しければ美しいほど、人は物を大切にするものだと思っていた。
でも、昨今のSNSによる「体験」の変化のせいでそれは変わってきているのかもしれない。

みんな美しいものを記録するのに必死で、目の前にあるー、今ここにある、美しいものは大切にしようとしない。見ようとすらしていない。

偉そうなことを言ってしまったけど、私も少し前までは美しいを記録することに必死だった。
美しいものを見つけては、くっつけて、「体験しました」と人にみせて自分を作ろうとしていた。(だってやっぱりすごいって思われたいもん。)

今回の展示会でこの違和感を感じとることができたのは、私が今インスタグラムをデトックスをしているから、そして同伴してくれた先輩が同じ感想を持ち、共有し合うことができたからだと思う。

少し前の私だったら、作品を撮るのに必死で後ろの人の行手を阻んでいたかもしれないし、会場で位置情報を見ていたかもしれないし、帰りのエレベーターで写真の選定もバリバリにやっちゃってたかもしれない。

”今ここ”に没入すること。
美しいものを大切にすること。

当たり前だったはずのことがどんどんできなくなっている私たちは、一体どこに行くんだろう。

インスタグラムに戻ることが怖くなっている。



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