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大阪人をいじめんといたって!

#大阪人 #笑い #大阪 #関西

あくまで個人的な意見として述べさせていただくと、
大阪の「笑い」というものは、
他地域の方々が想像する以上に、
「内輪ネタ」や「ベタ」なものが多分に含まれる。

そして、この文化は、意外にも、
「大阪人なら面白いこと言うんでしょ?」
というような発言に対して、
必ずしも大阪の人間が心地良い感情を
持たないということと無関係ではない。

新喜劇を観ていると、
この一見無関係な二つのお話が、
実は一つに繋がっているのだと実感する。

基本的に、新喜劇に登壇する役者さんは、
どのタイミングでどんな
「お決まり」のギャグを披露するかを、
観客はよくよく心得ている。

そして、そうしたベタな「お決まり」に対して、
観客も含めてずっこけるのが、
また一つの「お決まり」になっている。

そして、そうした「お決まり」を良く知っているからこそ、
その「型」を敢えて崩すことで、
一段と味わいの深い笑いに誘うということも、
これまた半ば「お決まり」の文化として定着している。

まさにべたべたの「内輪ネタ」なのだ。
もちろん、初めて見る人にとっても、
こうした役者さんのやりとりは十分に面白いものなのだが、
この味わいを深めるには、
ある意味での「内輪ネタ」である「お決まり」を含む、
大阪の文化に浸っている必要がある。

そして、この文化の中心である観客は、
役者さんの演技やアドリブに対して的確に
ずっこける、ツッコミを入れるなどのリアクションを取ることで
(テレビの前に座っていてもツッコミを忘れてはならない!)
まさに舞台上の役者さんと一体となって、
「笑いの場」を作り出すのである。

大阪文化のべたべたの「お笑い」を観る人は皆、
「自分が一番おもろい」と思っている。

だからこそ、役者さんの演技やアドリブに対し、
様々なリアクションを取る「自分」を含めて、
「笑いの場」を「自分の笑い」として楽しんでいるのである。

ここには、単なる大阪という、
世界から見れば「点」のような一地方の笑いの文化を超えて、
人間が根源的に持つ、
「コミュニケーション」というものの原点がある。

大阪文化は、他者の発話に対し、
それを客観的に観測するということはない。
必ず、「最もおもろい自分」が、
その中に入り込むことで、
すなわち、他者の発話に対するツッコミであったり、
気の利いた切り替えしであったり、
時には予想外の反応をしてみることで
相手のツッコミを誘発したり、
そうしたアドリブという
無限定空間におけるリアルタイムの創出を通して、
自分自身が他者と一体となった空間を創出することで、
「場」を作るということを自然に行うのである。

こうした自己と他者が、
「最もおもろい自分」という自分軸を通して
一体となるという、
人間の根本である「コミュニケーション」を行うことで、
大阪は、他地域から見て、
「面白い人が多い」という評価に繋がるのであろう。

さてさて、ここまで話したうえで、話題はようやく、
「大阪人なら面白いこと言うんでしょ?」
というところに移ることができるようになる。

これまでの「コミュニケーション」に関する
お話を前提にすると、
「大阪人なら面白いこと言うんでしょ?」
という台詞が如何なる意味を持つか、
ここまで読んだ暇な・・・もとい、聡明な読者なら、
おわかりいただけるはずである。

「大阪人なら面白いこと言うんでしょ?」

この台詞に対して、所謂「大阪人」は・・・
「私は大阪人ではない」
「大阪人ではない私が大阪人であるあなたに問う」
「あなたは私と文化を共有しない」
「その前提で、面白いことを言ってみなさい」
「大阪人でない私が、
 大阪人であるあなたの笑いが面白いかどうかを
 客観的な目線で評価して差し上げるわ」
「有り難く思いなさい」
「さあ、早く、私を楽しませられるものなら
 楽しませてみなさい」
「このアウェイの空気で、やれるものならやってみなさい」
「誰も助ける人はいないわよ」
という、孤立無援の状態で、
孤独に演技を行うことを強制されるような、
「見世物」にされるような恐怖を覚えるのである。

産業革命以来の技術的な発展により、
高度情報化社会が実現し、
さらに、個人の自由が尊重されてきた結果、
個人主義の往き過ぎが盛んに議論されている。

そうした議論を行う人々は、
ここで論じた「コミュニケーション」について、
どの程度、理解があるのだろうか。

「大阪人なら面白いこと言うんでしょ?」

個人主義の往き過ぎを懸念する一方で、
こうした台詞を知らず知らずに使用してはいないだろうか?

圧倒的に犯罪率が高い大阪、
自転車の鍵をかけ忘れようものなら瞬時に奪われるような
そんな治安が決して良いとは言えない大阪、
(なんと筆者は上京して一度も自転車の盗難に遭っていないのである。大阪・京都にいた頃は、自転車の寿命が一年以上保つことはなかったと言って良い。)
そんな大阪の自殺率は、
全国でも極めて低い位置にある。

この事実をどう受け止めるかは個人の自由だが、
息苦しさを感じる人は、
また、社会問題を小難しく論じる人は、
とりあえず、大阪ローカルの番組を見て、
腹を抱えて笑ってみればいいんじゃないかと思う。

観客として笑うのではない。

「最もおもろい自分」が、笑ってやることで、
その場を自分色に盛り上げてやるのだという
そうしたボランティア精神が大阪にはある。

当然だが、笑っている間はそんなことは意識しない。
意識しないが、大阪文化に身を投じるというのは、
そういうことなのだと思う。

まあ、こういうことは、
きっと社会学の先生方が色々と論じているのであろうが、
まあ、それはさておき、
「日常」が多くを占めるfacebookにあって、
そうした個人的な意見も、
少しくらいはあってもいいんじゃないかと思い、
ここに記させていただく。

(2016年9月22日 facebook投稿より)

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