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朗読が私に与えてくれるもの

他人の気持ちがわからないから、私は他人の言葉を声に出して朗読するのだ。
他人とのコミュニケーションは難しい性格かもしれないが、自分以外の人間の心理を理解することを諦めているわけではない。他人の気持ちがわからず、社会に興味が持てないとしても、生きている限り、興味の湧く事象というのは、どこかにあるものだろうと探している。

物語の中には、自分の好きな言葉だけが並んでいるわけではない。登場人物全てが私のお気に入りではない。悪人はやっぱり嫌である。正義の味方には憧れる。けれども、悪人と正義の味方と聴衆と感情移入できない部分にも、その他人の心の機微に心を動かされているのである。

平凡な人生を望む私は平凡な人間では無いかもしれない。しかしながら、紆余曲折あるような平々凡々な小説を面白がって読む感性がある。

逆境を受け入れられる性格ではないが、世の中に不幸があることを知っている。不幸を背負って生きている人がいることを知っている。また、不幸の最中にも幸福があると言うことを知っている。

いつか自分の物語を朗読したいという気持ちになるかもしれない。何度か挑戦したが、自分の書いた言葉の朗読は面白くなかった。

今は他人の言葉を借りたい。いや借りているのではない。私と違う人の言葉を発することで、何か人生の充実を得ているのだ。ストレス解消というものなのかもしれない。

お経ではダメなのだ。五十音を唱えても満足できない。他人の物語を読むことが今の私の充実だ。私は直接会って人の話は聞けないけれど(心が拒絶するという意味で)、直接会わなければ、あるいは長い話にしてもらえれば、話自体は聞けないわけではない。

ただ、感じるだけ神経体として生まれてしまった。他人と出会わないなら、肉体など不要だろう。しかしながら、それでも私は言葉を使う人間として生まれて、社会性のある哺乳類に生まれてしまった。

何か考える事はあるけれど、自分の考えを受け入れてもらいたいと思った事は無い。いや思ったことがあるかもしれないが、受け入れてもらうために努力する行為が嫌である。いつの間にか嫌になっていた。

けれど、私はまるで他人の考えを受け入れないのかと言えば、私の思考のほとんどは他人からの受け売りなのである。本で読んだ、なるほどそうだなと思うことを頭の中で考えているだけなのだ。あるいは自分が受け入れ難い思想についても足りない頭で考える事はよくある。

自分と他人が違っている事は当たり前だと思っている。世の中が面白くないわけじゃない。私は生きる意味を探さなければならないが、探すことが好きではない。むしろ、他人の人生のページを人差し指で繰るだけの行為で生きられないものだろうかと思っている。

私が命を持って生まれてしまったこと。なぜ私が植物に生まれなかったのか。この奇跡を私はただやり過ごしている。

地球が爆発するよりも早く私はきっと死ぬ。
急ぐ事は無い。命というのは儚い。
自分が繊細であるかどうか考える必要は無い。他人の繊細さに気遣えないことを悩んでいても仕方がない。

思考するものとして生まれてしまったのだ。
感情は流れていく。社会の景色も流れていく。思考することが痛い。それが生きていることの痛さだ。痛みと共に生きている。

言葉を紡ごう。誰かが生み出した言葉を声に出してみるのだ。痛くたって構わない。

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