本当に怖くない猫の話 part.14 前編
「おはようございます。今日も一日皆様に幸せが訪れますように!」
朝一番に誰かに挨拶をして、今後の幸せを約束するなんて自分には似合わないことだと何でも屋は思う。しっかり腰を曲げて視線を落とせば、足元にすり寄ってくる三毛のセミ猫と子猫の猫クロたちだけが、何でも屋にいつもと変わらない日常の安心感を与えてくれた。
それぞれの客に十分な時間一礼した後顔を上げれば、船上から見る朝日が眩しい。
「非常に楽しいクルーズでした。ぜひ、また参加させてください」
上機嫌で船を降りていく最後の客にまた深々と頭を下げる。見よう見真似だ。船のスタッフはいかにも慣れた感じで背筋を伸ばして丁寧に頭を下げている。対して何でも屋は、頭を下げた時に、スーツの袖のほつれを見つけて気になってそわそわして落ち着かなかった。
―また、参加したいなんて、婚活を終わらせる気があるのだろうか。
頭の中には余計な疑問まで浮かんでしまう。
「さあ、それじゃあ、私たちも自分の荷物を片付けたら、赤坂に戻りましょうか。私が一端家に帰るから、お昼の3時過ぎくらいにしましょう」
きびきびと段取りをつける所長の言葉は頼もしいが、何でも屋の足元の猫たちを撫でる姿はただの愛猫家だ。きっと一度家に戻って、夫に一晩任せた家の猫たちを構ってやりたいのだろう。
「はい」
ほっとした顔で頷いたのは、何でも屋の隣に立っていた依頼人だ。同僚となって日は浅いが、その前に猫の見合い相手探しの依頼人として出会ったので付き合いはもう1年以上になり何でも屋とは気心はずいぶん知れている。
「じゃあ、帰り行く前にお邪魔させてもらっていいですか。所長さんと一緒に車で送っていくので」
何でも屋の家は埼玉なので、仕事に行く前に彼女の家に寄らせてもらおうと勝手に決めた。運転手役は何でも屋なので、二人とも嫌とは言わなかった。何でも屋は1ヶ月前まで車を持っていなかったが、職場に運転手が一人は必要だということになって、普段も使える車を買ってもらいそれを社用車として登録することになった。実家に帰った時にたまに運転するだけのペーパードライバーなので、わざわざ教習所に通ったり、ここ最近忙しかった。
未だ他人を載せての運転には緊張する。だが、たった3回乗っただけのクルーズ船にはすっかり慣れてしまったようで、前回と前々回のような疲れは、彼女の家に行ってからも何でも屋は感じなかった。
ただ、家に着いて人心地つくなり仕事の話になってしまうのは、彼女との関係もだいぶ変わったことを思わせる。以前なら猫を膝に乗せて猫の話題ばかり話していた。
長毛のエイズ持ちの老猫は今日は特別に留守番後だから、セミ猫と猫クロと同じ部屋で過ごしている。それなら、もうセミ猫も一緒に飼ってやれば良いと思うのだが、依然として元飼っていたセミ猫のことは何でも屋に押し付けている。
「退会候補者がクルーズ船を気に入ってくれたんじゃ、何のために始めたんだがわからないですよね」
ソファに腰かけて両脇にセミ猫と老猫を遊ばせながら、依頼人はコーヒーを一口含んで息をついた。もっぱら紅茶派の彼女だが、ここ最近は忙しいせいか、コーヒーの頻度が多くなっている。停留場のクルーズ船で散々高級料理を味わったが、それより依頼人が炊飯器で3日前に作った残りの林檎ケーキにほっとするのは何でも屋の舌が庶民だからなのだろう。りんごケーキを作った依頼人は庶民とら言い難い育ちのはずだが。
元々所長と彼女と何でも屋の3人で始まった猫と人間の結婚相談所『ハッピープラス』だったが、始まって1月後には事務員兼雑用や会員受付のスタッフ男女1名ずつと、最近はアルバイトの女性が一人増えた。しかし、会員希望者が多くなるばかりで、人手が増えたにもかかわらず、最近は以前にも増して忙しくなっている。
今日び人の集まる宴会もままならず結婚式場も経営が大変なところが多いというのに、結婚相談所が盛況だなんて不思議な話だ。
何でも屋は契約社員で副業も認められており、元々やっていた買い物代行や猫探しやペットの世話などの仕事を優先してやっていたのだが、ここひと月ばかりは、始まったクルーズ船婚活のことなどで何でも屋の仕事は開店休業状態になっていた。
「もう定員をぎゅっとしぼった方がいいんじゃないですかね。休会もなしにした方がいいんじゃないですか」
元々この結婚相談所はある目的のために緩くやるはずだった。猫好きの集まりにしておけば、それだけで気の合う人がおおいだろうし、穏やかな感じで成婚率が上がればいい。猫アレルギーの人などは入会できないわけで、初婚か再婚かを問わず、年齢も問わない、あえて言うなら猫と読書好きな人おすすめというくらいで運営側とも気の合う客が来ればいいというくらいの気持ちで設立にかかわった何でも屋がコンセプトだけ伝え、方針は所長に一任した。
しかし、蓋を開けてみれば、集まった客は結婚経験のない40代以下の若くて収入のあって育ちの良い男女ばかりになった。おそらく、出資してくれた依頼人の父親に最初の客集めの伝手を頼ったために、そういう令嬢令息が集まる流れができてしまったのだろう。せっかく会費を安めに設定した甲斐がないと、夢見ていた売り上げ関係なしにゆるくホンワカ他人の幸せを願う計画が崩れて上流階級の気遣いに明け暮れる生活を所長も依頼人も何でも屋も嘆いていた。それが、一時この仕事から何でも屋の足を遠のかせた理由でもある。
契約社員の事務員やアルバイトスタッフには聞かせられない愚痴だ。売り上げはあればあるほど良いと彼女たちは思うだろう。だが、緊張する環境や達成感のないむなしさを平気でいられるなら、彼ら三人はこんな仕事を始めはしなかったのだ。
「うちに入ることが一種のステータスだなんて、誰が言ったんでしょうね。必要のないことにお金を使う気持ちがわかりません」
育ちがいいから生活環境が良いとは限らないが、実際始めて数か月でセレブの結婚相談所と思われてしまった節がある。赤坂のごみごみしたオフィス街の奥まった場所で築数十年の古びたビルの中の雑種猫が出迎えるひと時の癒しというには大雑把な感じの結婚相談所なのに、施設の広さと充実具合から金持ちの御用達と思われたようだ。元高級中華料理店の入っていたテナントビルだったので、せっかくなら厨房を活用しようと、日雇いの料理人を入れて会席料理でもてなせるようにしたのもいけなかったのだろう。会社の経営とは難しいものだ。
「今回なんて、ポーの黒猫の世界を楽しむ呪いのクルーズ船婚活でしたっけ?こんなのに参加者20人が集まるなんて思いますか?安くもないのに。でも、東野圭吾も有栖川有栖ミステリーもそう明るいもんじゃなかったですからね」
読書好きなら呪いだろうが何だろうが、本の世界をモチーフにしたクルーズ船の旅に惹かれるなんていうのは盲点だった。
『1ヶ月で退会の制度を設けましょう』
所長がそう言いだしたのは、2か月ほど前のことだ。名前だけ席を置いて、婚活をしない会員が増えだした頃のことだった。それだけでなく、アルバイトの彼女が言うには、何度か活動した会員のうちの2名が明らかに恋人とデートしているのを見かけたらしい。
恋人のいる人間が結婚相談所に登録すること自体不誠実だが、それだけで、「はい、退会してください」というのも難しい。最低限の礼儀ではあるわけだが、入会時に恋人はいませんと言われたら、相談所側の人間は信じるしかない。ただ、クルーズ船で今度は彼女と来たいと言われた時にはさすがに辟易した。相談所で出会った”彼女”でないことは、こそっと耳打ちされたことから瞭然であった。
すでに恋人のいる人間がなぜ結婚相談所に登録したいのか、彼らの考えることは謎であるが、とにかくそのアルバイトの女性の言葉によって、退会のための措置を講ずることになった。1ヶ月相談所を訪れずなんの活動もしなかったら、その月の会費は返金の上、退会である。希望者には休会を認めるが、事情といつまでが目途であるかメールや書面等で提出のこととした。それで数十名中が退会した。
しかし、それで、顔を出すようになった人もいた。みんな礼儀正しいので、食事会や読書会やただの猫を愛でるティーパーティーを開催しても和やかな雰囲気で楽しんでいる。
中には海外出張を断ってまで、参加する者もいた。流石に酔狂だが、得難い妻は一生だが、仕事は一生付き合う決まりはないという。至言である。
仕事が忙しくて参加できない人のために、メール連絡やメール等で会員と交流すれば、数ヶ月は会員継続できることにした。休会は3カ月。休会者の退会が先月10数名出たところで、外に出ての交流会をすることになった。本気度を試すのだ。
連休のクルーズ船で夜景を見ながら、プロジェクターで映画を見た後に原作の読書会だ。猫は船のスタッフが面倒をみてくれるし、本に猫が出てくるので連れて来なくても良い。内向的な趣味の人には魅力的だろうが、恋人がいれば連休はさすがにそちらが優先だろう。仕事に忙殺されて日頃参加が難しい人も同じくである。
昨日今日は第3回だったが既にリピーターがいるほどの人気ぶりである。残念ながら一度参加した人は後回しだが。
婚活というより趣味のイベントと取られてしまった感じになったのは、相談所側の人間が自分たちの趣味でイベントを考えてしまったからかもしれなかった。怖い話にすれば参加者が絞られるのではないかと考えたのも甘かった。
のんびり婚活する参加者たち。いつまでも会員が減らないと企業として新陳代謝が出来ないなどと経営者ぶった殺伐とした考えにとらわれているわけではないが、成果もないのに会費を取るのは心苦しい。未だ成婚は3組だけだ。
まるで頭の良い子だけ集めて名門大学に合格すると謳いながら、自分で勉強する子どもたちと授業を雑談だけで終わらせる中途半端な塾のようだ。
生徒は塾に通って頑張りましたという記録もが欲しいだけ、つまり今ハッピープラスに登録している会員も婚活の努力をしたという安心感が欲しいのだ。それが形だけでも。
そういう客が多いのは楽なのかもしれないが、仕事をさせてもらえない側のなけなしのプライドは悲しいことになっている。
もちろん、真面目に通ってくれている会員もいたので、やっと相談所としてちょうど良い人数にはなってきた。定員制にするには、今のような冷やかしみたいな人がどれだけいるか見極めてからというのが、所長の言だ。
「夜景でクルーズ船も良いけど、年に一回が限度かな。相談所でデートプランの相談に乗ったり、明るい席で食事を楽しむ方が健全に話も弾むという気がしますね」
依頼人の言葉に頷きつつも、何でも屋は常にないコーヒーの苦さに薄笑いを浮かべた。
「俺たちは、月に3回ですけど、客は年に一回かもしれませんし。まあ、来月・・・もう今月か。今月は、連休もないからお出かけは一時休みでしょう」
「それが救いですね。でも、まだ明日もありますから」
明日は美術館で漫画の原画展を見た後に、軽いランチ会だ。
連休の最終日、早く終わると信じたいが、何でも屋にとっては、明日の方が本題というところがある。
依頼人の見合い候補。彼が明日くる。
依頼人は彼にどんな印象を抱くだろうか。あるいは、依頼人を見た彼は。
リンゴケーキを綺麗に平らげると、相談所に向かうべく2人は重い腰を上げた。
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