言葉について考えて、僕は、グルグルする。

はじめに

言葉とか、言語化について考えようとしてたら色んな視点がグルグルして気持ち良くて面白かったので、グルグルした順番のまま書いてます。

前段

言語化の重要性って、自分の考えや感情を言葉に置き換えていくことで整理することはもちろん、自分の思考や感覚の曖昧な部分を見つけやすくなるからだと思う。

「エモい」グレーさも良い

言語化するときに、ぴったりな言葉を見つけるのって難しくて、「エモい」とか、「共感」が自分の感情と丁寧に向き合えなくなるのでは、みたいな文脈で今話題になってるけど、そういった幅広い解釈が可能で、単純にラベリングできる言葉って楽チンで、しかも概念的にかなり大きなものだから他人と共有しやすくて便利なのかも。理解出来る喜びと、共有できる喜びは似てるけど別物だから、そこを考えるとまた面白い。

古典における「えもいわれぬ」が、今の「エモい」になったんじゃないかって昔彼女と話して面白かった。遥か昔からそういったグレーさをグレーのままにしておくのもいいじゃんって考える人がいたのかって驚いた。
その時同時に思ったのが、言語化できない、形容しがたい感情をグレーにしておくことも一つの楽しみ方だし、音楽とかアートは「エモい」ものを「エモい」まま伝えられる不思議で、面白い表現だと思う。

言葉も同じことが言えるのでは?

文章においても感情を情景描写で伝えようとしたりする。感情って時間の流れとか、気温とか、お腹が空いてるかどうかとか、そういった立体的で流動的なものな感じがする。(もの?物?モノ?)
感情には色んな色があるときもあるし、無いときもあるし、温度があるときもあれば、無いときもあるし、快適だったり、不快だったり、どちらでもなかったりする。

そういった機微を言葉で表現している人の文章に、僕は心を動かされる。
曖昧なのに、なぜか、伝わる(伝わったような気になる)のだ。

蛇足
「感情」を「表現」(例えば、文字、写真、音楽、映像などなど)に落とし込むのって実はめっちゃすごくて、大変で、面白くて、少なくとも自分は映像制作の会社にいるから、「表現」とそれが受取手に対してどういう作用を起こすのかについてちゃんと考えていかないといけないな〜って最近ようやく考え始めた。

気づいたこと

ここまで考えて気づいたんだけど、表現を作る側の文章を書くということと、例えば僕がやってるみたいな感情の整理における言語化というのは役割が大きく違うんだなと気づけた。

端的に言うと前者は感情を動かすもので、後者は感情を整理するものである。

言葉って自分だけのものじゃない。

でもでも、文章が不思議なのは、その両者の役割が入れ替わりうる部分かもしれない。

作者の感情を文章にしたものがある。

それを読んだ人が自分の心の動きを言語化し、整理する。

それを読んだ人も、自分の感情の中に新たな気づきを得る。

これって2行目の人は、自分の感情の整理をしつつ、他人の感情を動かしていて、その時に使われている言葉の役目は自分だけに影響するものじゃなくなってる。

音楽とか美術とかは「言葉」以外の表現でこの循環を行えるのかもしれないけど、言葉って、みんながある程度共通の認識を持ってる点ですごいな〜

この辺りでそろそろ僕は、グルグルしてる自分の思考の流れに、興奮してきた。興奮は、正しい道筋を冷静に見れなくなる。そもそも何の話ししてたかわからなくなった。

曖昧で唐突な終わり

言葉は、言語化してはっきりさせることも、曖昧なままにしておくこともできる。
僕はわからないものに(なぜか)感動するし、わかった時に気持ち良さを感じる。

だからこそ僕は、自分の感情をはっきりさせることができる人間になりたいし、分からない感情を知りたい。

それはわかるものの精度を上げていくことで、よりわからないものが増えてきて学びの対象が増えて面白くなる。ソクラテスの無知の知みたいなことになってきた。

その上その感情を言葉でも、音楽でも、映像でも、ファッションでも、おしゃべりの中のやり取りでも、何でもいいけど、表現できたらもっと面白そう。その表現について誰かの感想も教えて欲しいし、どうしたらいいんだ、興奮してきた。

おもしれー。また今度考えよう。

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