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thema1; 時間の結節 the meaning of bridging multiple diverse timeliness〈後編〉

アートの制約の外の世界。
マーケットだったり、SNSだったり、教育だったり、それこそ最近だとメタバースなんかもそこに入ってくるのかな。そしてもちろん近しいところでは、建築とかデザインとかもそこに入ってくるし、素材ということに着目すれば、通常アーティストがメディウムとして使わないような工業製品(100年前にデュシャンが便器を展示したり)やマーケット(最近だとバンクシーがオークションという装置を作品に取り入れたのが話題になったっけ)そしてこれは古から政治(フランス哲学的には、政治とアートはコインの表と裏だったり)なんかを、素材としてつかいアートをそこに成立させることに、古今東西のアーティストたちは人生を捧げてきたのです。

ちょっとだけずらしたい。ちょっと視点をずらしたところから、自分の作品を見せてみたい。想いもよらない角度から自分の見ている世界を見せてみたい。そんないたずらっこみたいな想いは、アーティストがものをつくるモチベーションの中で、案外大きい部分を占めてるような気がします。
もちろん、ずらすことが目的なんじゃなくて視点をずらすことで今まで見えなかった世界をちらりと見せたい、そのちらりズムみたいなところが、萌えポイントとしておおきいのかなぁと。そう、視点をずらすことはあくまで手段で、その目的は、ともすると見逃されがちなある一定の真実らしきものや、ある一定の美らしきものの存在を感じるチャンスを観客に与えるためで、そういったお膳立てをどこまでさりげなくできるのかが作品の評価につながるのかなぁなんて個人的には思ったりします。

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                                  SouvenirⅣ / 2013 ©hiraki sawa

そこでようやく今回のプロジェクトにひきつけて考えてみたいのですが、序のところで少しだけ触れた六甲の安藤教会で展示されたアート作品の中でバッグから取り出した詩集を読む女性って、実はものすごい越境者なんですよね。もしくは『ずらし』の名手。
だって、わざわざアートフェスティバルが開催されてる時に、ケーブルカーに乗って六甲山に登り、教会での展示空間で作品を目にしながら、その建築空間もしくはアート空間の中で、自分で選び持ってきた詩集から詩の世界にどっぷり旅に出てるんです。旅の入口は他にも沢山あるのに(山とか教会とかアート作品とか建築とか)それらを享受したうえで、自らの選んだ詩の世界に旅に出てる。そして陽がくれてきたら、極めて自然に立ち上がりバッグに詩集をしまい帰路につく。なんたるずらし名人!

でもよくよく考えてみると、他のどこでも詩集を読んで詩の世界に旅に出られるはずなのに、わざわざそこで、その山のその教会のその作品の前で旅に出たいと彼女が思ったことって物凄いことで、そういう様々な要素のあわいみたいなところに、誰かを立ち止まらせ、時間軸を(一旦奪ったうえで新しく)設定させ、世界を構築させるような誘いって、ミラクルなんだと思うのです。

たぶん、そういうあわいみたいなところでは、時間がゆらぐような気がして、ある種の不安定さが必然。それは量子力学的な話でいうと、エントロピー同志がぶつかる辺縁のあたりでは時間の矢が逆行する可能性があるんじゃないかっていう、そんなところに近しいような気がするのです。アートというエネルギーや建築というエネルギーに、人間ていうエネルギーが単体として(ひとり)だったり集合体として(みんな)だったりが触れ合うこと、作用しあうことで、その辺縁にできる境界領域=あわいには、時間のゆらぎが生まれ、そこにはなんらかの一般的な秩序やルールの中では見えない世界が立ち上がり、おっきなエネルギー同士の結節が起こるんじゃないか。
それらの結節からたちあがる新しい軸(時間や空間、そして感覚の軸、解像度みたいなやつ)には、無限の可能性があって、少なくともこれまでに見たことのない世界を見えるようにする力が宿るんじゃないか、そんな風に思います。

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           absent / 2018 ©hiraki sawa

で、何が言いたいかっていうと、今回のプロジェクトは、アーティストであるさわが、アートというある種の装置(既存のミュージアムやギャラリー、コレクションや芸術祭)もしくは、ある種の規定の外の世界(自分自身でプロジェクトをつくりそこで見せていくスタイルという意味では、クリストのプロジェクトやジャッドのマーファとかもそうですが)で何かをやってみようとする時に、タイムレスではいられないので、足がかりとして建築というものに宿る時間に頼ろうとしていること。そして、建築家が内包される時間軸の異なる思考と共想?!競争?!狂想?!共創することで、自らの時間軸にほころびをつくり、それらを受け入れ楽しもうとしてみていること。実際、彼らの作品から受けるイメージは対照的ですらあって(静謐なさわ×ポップなABみたいな)どう見ても似た者同士ではない仲間と一緒にものをつくろうとする姿勢からは、どう見ても時間的効率性を度外視しようとする態度が透けて見えてくるわけで、そこに大きな意味があるんじゃないかと思ったりします。

予定調和的な結節から生まれるエネルギーより、予測困難な結節から生まれるエネルギーには大きな可能性が宿るんじゃないかなと。ちょっと壮大な、そんな実験のはじまりはじまり。

いよいよ、プロジェクトが進み始めるので、この文章もthema2に移っていきます。

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