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「雛の主 便りもなくて ちらし寿司」不肖の娘を詠んだ父のこと

雛の主
便りもなくて
ちらし寿司

昨年亡くなった父が生前、実家を離れて久しい娘(私)のことを詠んだ句である。

大学入学とともに家を出て京都へ。卒業後そのまま大阪で就職、1年たたないうちに転職を機に実家に戻ったものの、すぐまた家を出てそのまま結婚。実家に帰るのは年に盆と正月の2回だけという歳月が流れた。

3年前、
「あなたのことは何も心配していないから」
そう電話口で言われたのが、きちんと父と会話をした最後だったように思う。

本当はその時、娘である私は、仲間4人で始めた会社を紆余曲折の末に1人で引き継ぎ、仕事も人間関係もお金のことも心配だらけだったのだけど。

それからしばらくして母から、「お父さんの様子がおかしい」とつづった手紙を受け取った。
その前の年に母が入院した時、食事を作りに私が実家に帰った時は、耳が遠いこと、反応が鈍いことが少し気になるぐらいだったのが、認知機能の衰えが進み、母に暴言を吐くこともあるという。そんな父は想像したこともなかったし、想像もできなかった。

急いで実家に帰ると、父は穏やかな表情で、やあ、と迎えてくれた。

30年前の退職時に買った、自分専用チェアに座った父は、いつもと変わらないようにも見えたが、窓から差し込む午後の光に肌が陽炎のように透け、どこか違う世界にいるようにも見えた。

しばらく何かを思い出すようにしていたが、ふと口を開いたと思ったら、

「もういいだろう。
もう十分生きた。
そろそろいいだろう」

と、ゆっくり、だがはっきりとした口調で、誰かに宣言するように言った。

あんなことを言うのよ。意識がある時は何か書き付けたりしていて、自分は仕事にも子供たちにも恵まれて、いい人生だったと思う、とか。でも、文字も乱れて途中で意味不明になったり。あんなに頭のいい、字も上手な人だったのに。

母は口惜しそうに言った。

そういえば、
「あなたのことは心配してない」と言われた時の次に、電話口に父が出た時のこと。父とひとしきり話した後で、
「ところであなたはどなたでしたか」
と聞かれたのだった。

ああ、とうとう来たか。
そう思って母に告げると、

「普段はそんなことはないわよ。
お父さんに聞いたら、何かと勘違いしたみたい。元気よ」

と返ってきた。

いや、あれは確かに認知症の始まりだとわかっていたが、
「そう、ならいいけど」
と、やり過ごしてしまったのが悔やまれる。

「大丈夫?」
「大丈夫、心配ない」

毎年1、2回会って、このやりとりを繰り返し、安心して日常生活に戻る。それが永遠に続くと、どうして思えたのだろう。

無事でいることが最大の親孝行であり、子ども孝行である。それは確かにその通り。でも、歳月は容赦なく、人は表面上はわからなくても、常に変化し続けている。かけがえのない人とは、せめてその変化をキャッチできるぐらいの密度で接していなければならなかった。毎日は忙しく、やることは多く、あっという間に時間は過ぎていく。でも、失った人は二度とは帰ってこないのだ。

昨年6月、短い入院と介護施設での生活を経て、父は旅立っていった。親族だけで行った葬儀に、子どもたちで父の写真や俳句を集めてスライドショーをつくり、QRコードでいつでも見られるようにした。その最後のページにと弟が選んだのが冒頭の句である。

やれやれ、というため息とともに、帰ってこないぐらい自立したのだからしっかりやれよ、という励ましや誇らしさも。そして「ママの作った料理は宇宙一」という父の口癖も聞こえてくるような。

お父さん、ありがとうございました。
どうかゆっくり休んでください。



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