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不器用ではなく雑なのだった〜美大に入って良かった話2〜

先日書いた記事に、子どもの頃から図工・美術といったものが苦手だったという話を書いた

私はずっと自分が不器用なのだと思っていた。
そして生まれつき「不器用な人」というのと、「器用な人」というのがいて、これは努力しても無駄なのだと思っていた。

そういう私が、50歳手前で美大に入ってしまって今もまだ悪戦苦闘しているわけだ。

そして、美大に入って気づいたのは、私は「不器用」以前にものすごく「雑な人」だったということだ。

以前、外資系企業に勤めていたときに出張でアメリカ本社に行くときは、千代紙を持っていっていた。誰かのエッセイで、ホテルにチップを置いておくときに折り鶴を置いていったらものすごく喜ばれたという話を読んだからだ。

千代紙なんて荷物にもならないし、それは面白いと思ってやってみた。会社の指定でそれなりのホテルに泊まらされるためなのか(従業員が危険な目にあったほうが会社としては高くつくから)、テーブルの上のチップは持っていかないが一緒に置いてあった折り鶴がなくなる。
こんなことがなんだか妙に嬉しかった。

図工と美術がものすごく苦手な私が美大に入ってしまったように、私は英語もできないのに外資系に入ってしまった。そういう意味では性格も雑なのだ。

仕事の話は、想像がつく話ばかりだからカタコトでもなんとかなるが、問題は、ディナーとか社内交流のためのレクリエーションとかその手のもの。何の会話が出てくるかさっぱり検討がつかない。
もちろん、同僚でも英語が苦手なメンバーはいるのだが、彼ら彼女らは得意なゴルフや野球の話をしたり(当時はちょうどイチローが大リーグに行った頃だった)、洋画の話をしたりしていたが、そもそも私はその手のことにほとんど興味がなく、共通の会話を見いだせなかった。

そんなとき、活躍してくれたのがこれまた折り紙。

ビジネスの場にはいないけれど、ディナーの席やレクリエーションは家族も参加OKというのは、アメリカ企業ではよくあることのようで、折り紙を取り出し子どもたちと遊んでいれば何となく時間をやり過ごせたし、大人も興味を持ってくれた。
あれこれ聞かれると返答に困るが、彼らは基本的に自分たちが話し手になりたいので、「日本人はこうやって遊ぶの?私が小さいときは…」「私もクリエイティブなことがスキで、週末はね…」みたいな感じであれこれ話始めてくれるので、こちらは"year"  "me, too" "really?"みたいな感じで適当な相槌を打ちながら、折り紙を折っていればなんとなく場違いな感じでもない。

で、必ずそこで「私も折りたい!」という人が何人か出てくるので、手本を見せながら、教えるのだが、とにかくこの人達は不器用というよりも、基本が雑なのだ、
まず、折り紙を半分で折る時点で、半分になっていない。三角の角が合わせられない…という感じで、投げ出してしまう。
角と線を合わせないと折り紙で何かを作るのはムリ!というのがどうも理解しにくいようだ。

さて、前段が長くなったが、私が不器用だと思いこんでいたものはまさにこれだった。
そこは丁寧にゆっくり、きっちりやらないと駄目という部分が、ものすごく適当なので、出来上がったものはとんでもなく下手くそなものになる。そりゃそうだ。
角が合わないまま折り進めた、鶴を想像してもえらえればわかるだろう。

入学して最初の頃のスクーリングで、やたらにカッターを使う課題があった。
これがどうにも全然うまくできない。定規をあててカッターで切っているのに、なぜか切った紙がまっすぐ切れていない。
見るに見かねて、アシスタントの方がやってくれて、それを見ていて気づいた。

1) 私の定規がそもそもカッターマットに対して真っ直ぐに当てられていない。微妙に斜めなのだ。下に目盛りがついているのにそこにきっちり当てていない

2) カッターが最後まで定規に沿っていない。最初は慎重に歯をあてているのだが、途中で力が抜けてしまい、最後まできっちりとカッターに沿っていない、だから下の方の切り口はウネウネしている。

あ、そういうことだったのね!と不器用とか以前の問題だった。
当たり前だが、上記の2点を修正したらちゃんとまっすぐに紙を切ることができた。

このことがあってから、私は色んなことについて上手くいかないときは、私ができないのではなくて、私のやり方は雑なのでは?と考えるようになった。
実際、私が雑なために上手くいっていないことは山のようにあった。

雑な部分をゆっくり丁寧にやるようになっただけで、作品作りが上達するわけではない、やはりそこには手先の器用さと、当然センスも必要だし、そもそも根本的に良いものを作りたい、表現したいという気持ちがないとならない。
その辺りは、相変わらず全部抜け落ちている。

とはいえ、最初から不器用だからとなんでもかんでも投げ出すのではなく、これは難しいから、ゆっくり丁寧にやってみようと思うと、以前よりも随分とできることが増えた。

人生の後半戦ではなく、子供の頃に気づきたかったな‥と思わなくはないけれど、後半戦でも気づけてよかった。

さて、今日も「私には伸びしろしかない」と念じながら勉強しよう。