見出し画像

"みんな" の中に自分を入れる? ファシリテーターは意見をしないのか問題について考える

ファシリテーターにはいろんなタイプがいますが、大きく分けられるところは「自分に触れながら」その場にいるファシリテーターと、そうでないファシリテーターではないでしょうか。つまり、その場にいる皆に自分を含めている人と、含めていない人という意味です。


ちなみにわたしは前者のタイプ。つまり自分に触れながらその場にいることを大切にしたいと考えています。


「自分に触れながらその場にいる」をもう少し別の表現をすると、参加者が話されているテーマについて自分がどう感じているか、味わってその場にいる。そして、必要だと判断するときにはそれをその場に表明するということですね。


例えば、ある企業で自社製品をどう広めるかという話し合いがされていたとして、外部の立場からそのファシリテーターをしているとします。この時、そのファシリテーターは社員と同じ立場で広めるという役割ではありませんが、同じ社会に生きる一員として、利用者となる可能性はありますよね。


この状況の時に、以下の2つに分かれることになります。

・ファシリテーターに徹するのがプロ。話し合いに意見は一切すべきでないし、自分がどう感じているかは全く関係がないことだ。

・ファシリテーターでありながら同じ社会に生きる一員。話されている内容も可能な範囲で、聞きながら自分に起きる反応を感じてその場にいる。

ここは、ファシリテーターによって大きく意見が分かれるところではないでしょうか。


ちなみに、私は「自分に触れながらいる」ことを大切にしているので、その場にとってプラスになりそうと判断したら「この社会に一緒に生きる一員としてなのですが」と前置きしてから感じたことを伝えたりもします。


でもこれ「話されているテーマに対して意見するなんてとんでもない!」「そんなのはプロじゃない!」


と思う人もいるはずです。コンテンツ(=話されている内容)は参加者のものであり、 ファシリテーターは「コンテンツ(=話されている内容) に触れないこと」と学んでいる人もいるでしょう。


私自身も、そう教わる講座に出たことがありますし、コンテンツに触れないようにしようと考えていた時期もあります。今でももちろん、参加者が「AかBか?」みたいな話をしているときに「私はAだと思います!」というようなどちらかの意見に意図的に加担することはもちろんしないのですが、その場で話されていることが大切な内容であればあるほど、意見をしなかったとしてもその場で起きていることを聞いて、自分自身を感じることはするようにしています。


言語化して伝えるのが難しいところなのですが、自分に触れずにその場にいる人がいると、その場が軽くなる印象があるのです。


例えば、環境問題についての話し合いのファシリテーターをしていたとしましょう。

・「コンテンツに触れないのがファシリテーターなので」というスタンスでその場にいる人

・「コンテンツは参加者のものだが、私も広い社会の一員なので」というスタンスでその場にいる人

どちらのファシリテーターが、その話し合いを大切にファシリテートできるかを考えた時に、私は後者だと思っています。


大切な話し合いのファシリテーターほど「コンテンツには触れません」という姿勢が、その話し合いを軽んじているようにも見えてしまうんですね。(上記の例で言うと「環境問題について無視したい人」に見えてしまい、それが場に影響すると思っている、という意味です)


参加者の話し合いに一緒に巻き込まれましょう、ではなくちゃんとファシリテーターとして話し合いのプロセスをサポートすることに重点を置きながらも、社会の一員としては共にいることを大切にしましょうという感じ。


言葉で伝えるのが難しいのと、テーマやファシリテートする場面によっても変わると思うのですが、自分にとって大切にしているところなので書いてみました。


あなたは、ファシリテーターとしてその場にいるときに、その場にいる自分に触れていますか?




最後まで読んでくださってありがとうございました ( ´ ▽ ` )/ ♡ もし良ければシェア、感想などをTwitterやDMなどで教えていただけたら嬉しいです。 またぜひ読みにきてくださいね!