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エリートは絶望が足りない。 自分を見ずに生きてきたことの代償は、金額的にも高くつく。


わたしの周りには、いわゆる「エリート」(教わる、覚えるで成功体験を重ねてきた人、と捉えてください) な人が多いです。



しかも高額なセミナーに行きまくって勉強し続ける勉強熱心な人も多い。







でも、私は高額のセミナーに行きまくる人に対して、結構な違和感があります。




もちろん、私もたまにはセミナーに行くこともあるし、価値あるものにはお金をちゃんと払いたいと思っています。でも、高額のセミナーにいろいろ行く人は、きっと頑張っている人のはずなのに、なぜか… 惹かれない。






XX認定講座というような講座に行きまくる手法コレクター。
XXの叡智を学ぶというような、特別な考え方や珍しい人からしか教われないとされているセミナーを受けまくるジプシー。
いつまで経ってもいろんなワークを受けて自分を癒し続けたい人。
なんとかリーダーシップを探求しまくる人。





何というか、、、ある程度の年齢の人のこういう行動って「いつまでやるの?」って思っちゃうんですよね。 




あなたの人生、いつ始めるの?



っていうような苛立ちにも近い。



要は特別な体験、手法、考え方を求めて高額なセミナーに行きまくるけど、その人自身が変化していない、行動していないっていう人に、強烈な違和感があるってことなんだけど。



セミナーって自分の学びに変えたり、体験をこれからの人生の指針や意味づけしたりするのに時間がかかるもの。



だから、学んだことを自分のものにしないうちに次の「特別な体験」を求めて自分の時間を埋める人は、自分のことを見てない人にしか見えません。人って何を言っても、結局は行動が本音だから。






「受講者」でいるだけの人生ってつまらない。






そこまで学んでいなくても、「今の自分に出来る範囲でやってみます!」と手を挙げられる人の方が圧倒的に面白いし、誰かに教わったことをそのまま教えるより、「自分で実践してみましたが、この方がいいです!」と「その人」の色が強い方がずば抜けて好き。


2の人の方が小さいながらもその人の世界観が出来て、その人の色が濃くなる。





そもそも、人が「動く」ことの前にあるのは、自分の体験を通じた強烈な心の動き、だと考えています。



狂おしいほど悩んだり、大泣きしたり、時に感動に震える体験。自分の情熱が沸き上がって高揚したり、絶望に打ちひしがれるくらいの感情の動き。




いわゆる、エリートには絶望が足りない。




わたしは最近、そう思っています。




「教わること」「与えてもらうこと」が、生身の「わたし」で体験するよりも「先」にきて、知識や経験のない「わたし」として自分を感じる機会を失っているんです。



なにかの講座に行ったら、それを教わる前の状態には戻れません。そこからは、それを学んだ「知識があるわたし」での体験になる。



だから、講座に行きまくる人って1つ1つの、"自分のものにしていない体験" が自分の内側に積み重なることで、さらに「わたし」がどう感じるのかも分かりづらくなっていきます。



高額のセミナーに行きまくって何も動かない人がいる。それってつまらなくないですか?






自分を輝かせるのは高額セミナーの特別な体験ではありません。





「覚えること」「誰かに教わること」で成果を残してきた人が、新たなこともミスをしないように、誰かに教わってから、この手法を学んでから、自分が癒されてから、生きやすくなってから…と何かにすがっているような姿は、本人は頑張っているつもりなのかもしれないけれど、ちょっとした息苦しささえ、周りに与えます。



さっさとそんな自分にも絶望して、いつまでもセミナーを受ける側ではなく影響を与える側になればいいのに。



自分を見ずに生きてきたことの代償は、金額的にも高くつく。



受講者だけの人生は、その人ならではの、自分だけの人生が始まっていない人だと思う。



そしてこんなnoteを書いてしまうということは今、まさに私自身が「影響を与える側になれ」と自分に期待していることの証なのかもしれません。



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