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私が生まれてきた訳は、どこかの誰かに救われて、どこかの誰かを救うため

私は広島で生まれました。両親、祖父母共に広島出身であり、祖父母は第二次世界大戦の経験者で、今生きている87歳の祖母も被爆者健康手帳を持っています。


幼少期は毎年夏休みを広島で過ごし、平和公園を訪れては戦争の話を聞き、読書感想文にも佐々木禎子さんの本 (*広島で原爆にあい、10年後に原爆症で12歳で亡くなった佐々木禎子さんという少女の一生の話) を読んでいました。


これまでわざわざ自分が聞いた戦争体験を周りの人に語ることはなかったのですが、1945年8月6日のことは当たり前に自分の中に持ちながら生きてきたつもりです。しかし、歳を重ねて広島を訪れる回数が減ってしまったこともあり、急に自分の中で幼少期にたくさん聞いた話や何度も平和記念公園を訪れた記憶が、とても大切なもののように感じるようになりました。


このnoteはそんな中で私が祖母にわざわざ「戦争時にどんなだったか話を聞きたい」とお願いして聞かせてもらった話の記録です。今、目の前に広がる日常は決して当たり前ではなく、ここまで命をつないでくれた先人が願いを込めて育んできたものなのだということを伝えたくて、今日こうしてPCの前に向かっています。


幸せなことに祖母は今も元気に暮らしていますし、「聞いた話をぜひ書いてね」と言ってくれています。それでは、ここからは祖母に聞いた話を実際に綴っていきたいと思います。


水害や空襲から逃げる日々

祖母は5歳のそれこそ物心ついた時から、小学校6年生の1945年に原爆が落ちて戦争が終わるまで、戦争している状態が当たり前の日々だったそうです。「その状態って怖いよね?」と聞いても、「そうじゃない状態を知らなかったからそれが当たり前だと思っていた」と言っていました。


水害が起きて、逃げ出していたら人が流されているところを目にしたり、そんな中自分も流されてしまって溺れているところにたまたま流れてきた戸板を掴んで生き延びたとか、空襲が起きた時に兄の号令で家族一緒に、他人の家を通り抜けて逃げた (*昔は家に鍵をかけるのが禁止されていたそうで、逃げるときは人の家を勝手に通って踏み散らかして逃げてたそう)とか。


防空壕はそれぞれの家の人が自分たちで掘っていたとか、でも防空壕に逃げ込んだ人は空襲の時に起きた熱気が中にこもって窒息して亡くなってしまう人が多かったとか。


これらは全て今から75年前の話です。


1945年8月6日8時15分

あの日、夏休み中だった祖母は、結核持ちの母の世話をするために住んでいた五日市を離れて、呉にいたそうです。そこで、いきなり目の前がぴかっと光り、次の瞬間には空に大きな雲が立ち上がっていた、と。


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「ちょうどあれくらいの大きさだったね...」と話をしている間に目の前に見えていた雲を指して話していました。


「なんだったんだろう・・・」という気持ちでぼんやりとその日は過ごし、帰宅した兄によって自分が見た光と雲が「何かとてつもなくまずいものだった」と聞かされました。


しかし祖母の妹は8月6日は五日市(広島市)にいたのです。心配でたまらなくなった祖母の母と祖母は、なんと広島市に行くことに決めたのです。


病気がちだった母が握り飯を作って、しゃんとして祖母の手を引き、呉から向灘 (現在の広島市南区の向洋地区)までを汽車(国鉄)で、そこから広島の中心の方までを馬車で、そしてそこから交通手段がなくなった祖母は母と西広島までをなんと徒歩で歩いて行ったそうです。


その時小学校6年性だった祖母には、それだけの移動は大変なものだったようで私が幼少期に、祖母に手を引かれながら原爆ドームに行った時に繰り返し「おばあちゃんが小さい頃には、ここをずっと歩いたのよ」と聞き、幼心に(当時私が、小学2〜3年とか) 祖母は何か、とてつもなく大変で辛い経験をしたのだという感触を受け取ったことを覚えています。


8月9日、電車が動いていた

ヘトヘトに心が擦り切れるくらいに歩いた祖母は、西広島地区に到着した時に電車(今の広電のような路面電車)が動いていることを発見し、震えるほど感動したと言います。




・・・電車が動いてる・・・!




そうです。広島は原爆の後も、動かせる範囲で電車などの交通機関を動かしていたのですね。


そこから妹が住んでいた五日市までを電車で移動し、妹が無事であることを確かめることができたそうです。


この出来事が8月9日。被爆者健康手帳というのは8月20日までに爆心地から概ね2km圏内に入った者に対して発行されます。祖母は妹の無事を確かめるために9日に広島地区を歩いたため、現在、被爆者健康手帳を持っているのです。


校庭に、減った生徒の数や背中の傷

その後、学校に行った時に全校生徒が集まる場で、学年別に児童が並んでいた時のこと。


祖母の年齢より1つ上の学年の生徒が半分くらい減って校庭にスペースが出来ていることに気がつきます。1945年8月、祖母は小学校6年で12歳くらいでしたが、今でいう中学の年齢になると大人扱いされていた時代。


13歳以上の生徒の多くは、戦時中に倒壊した建物の撤去作業を行うために広島の中心地にいたため、亡くなってしまっていたようです。


今まで人がいたはずの校庭にしんとしたスペースがあるのを見た幼い頃の祖母はどんな気持ちだったのだろうか。75年後にその話を聞いた私ですがグッと胸に黒い塊が押し込められるような気持ちがします。


他にも、祖母は87歳なので友人で既に亡くなっている人がいますが、中には急に亡くなってしまう人もいて、それは被曝の影響があったのかもしれません。


少し話は変わりますが、私の祖父は背中には原爆の突風で割れた窓でついた傷がありました。私が4歳?くらいの時に見た時には「なんか背中に線が入ってる...」とびっくりしたのですが、今考えると直接被害を受けた人の他にも祖父のような人はいっぱいいたのではないかと思います。


校庭のスペースや、急に亡くなってしまう友人や、背中の傷。原爆はそれによって直接亡くなった人でなくても、その痛みと悲しみの破片が至るところに染み渡らせていたのです。


祖母の話が私にもたらしたもの

ここまでが私が祖母から聞いた話の大筋です。 今回改めて戦争の体験を聞いたので、祖母の体験を一連の流れとして聞いたのですが、私は幼少期からこれらの話の一端を繰り返し聞いて育ちました。


この体験が今の自分にどんな影響を与えてくれているかを振り返ってみたときに気づくのは、「自分の命を大切にする力が育まれたこと」に尽きます。


私は「なんのために生きてるのだろうか?」とか「自分の命なんてちっさなもの」などという、若い人が悩みがちな自分の命については悩んだことがないのです。自分の命がどんな風につながって今を生きているかを知っているので、自分の命が自分のもののようで、そうではない、、、深い流れのようなものの一部のような、そんな感覚があります。


私の命は、誰かが大切に生きた人生の積み重ねでできているのだと。


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祖母の施設のベッドの壁に貼られている「いのちの理由」という詩と私たちの写真。祖母の部屋には他にも何枚も私たちの写真が貼られています。



この壁に貼られていた、「いのちの理由」という詩がすごく素敵だったので、ぜひ読んでみてください。

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戦争の反対語は平和でなく、「対話」です

時は経ち、今日は2020年8月6日です。私がこのnoteを書いたのは冒頭にある通り、「私たちの日常は先人たちの努力あってだよ」ということを伝えたいのももちろんですが、大切な今日という1日を大切な誰かの話をぜひ、聞いてみて欲しいと願うからでもあります。


ここに書かれていることは、確かに戦争での体験を伝えることでもありますが、祖母が大切に生きた時間を私が聞いたもの。あなたもぜひ、大切な人がどう生きてきたかを「聞いて」みて欲しいのです。


その人の言葉にただ耳を傾けることは、相手を受け止める一歩です。私はそれが対話の始まりと信じてこれまで活動してきました。



対話する社会へという本のまえがきに戦争・暴力の反対語は平和でなく、「対話」です。  という言葉があります。



終戦75周年の今日。私たちが平和のために対話を選ぶ勇気を持てますように。


*追記* 
このnoteで書いた祖母の戦争体験は、広島平和記念資料館の東館3階、被爆者証言ビデオコーナー(個別ブース)で見ることができます。私の祖母の名前は「小川紀子」と言います。検索すると見ることができるので、もし行く機会がある方はぜひ見てみてください。

*2021年12月26日さらに追記*
なんと、祖母の被爆者証言ビデオが平和記念資料館のYoutubeで公開されました。私が書いた話を、そのまま祖母が話しています。ぜひご覧になってみてください。






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