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「想い出を食べる」ということ

「あとは想い出を食べて生きていけばいいか」
「〇〇歳過ぎたらもう何もないし想い出を食べて余生を過ごすわ」

度々絶望してはそんなことを割と頻繁に考える人間でした。
何だかんだ割と速やかに新しい好きなものときめかしいものを見つけてしまえる図太い性質だったものでここまで生き存えて来た訳なんですけども。

CAFUNÉLの"Humid"という曲は、私の中では「好きなひとに届く気がしないのがしんどいんでもう全部捨てて隠居したろかな」と思っているひとが主人公なんですが(勿論全然違う解釈で聴いてくださって構いません。私は自分の曲をいろんな解釈で自由に聴いていただくのがとても好きです)
その最後にも出てくるワード「想い出を食べて生きればいいか」。

この曲で食べていこうとしているのは「君」(好きなひと)に関する想い出だと当初思っていて。でも失くした(失くそうとしている)ものに関わる想い出なんて、どう考えても想い出すだけでしんどくないか? そんな想い出を食べて生きていくとかただの生き地獄では?
などとある日思い至りぐるぐる考えておったのですが。

最近中高や大学の頃のことを思い出す機会がやたらあって。
憧れだけ食べて生きていけた未分化の頃のキラキラした景色だとか、誰かにそっともらった好意に支えてもらった記憶だとか、毎日のように笑い合って好きだなって思って卒業するのさみしいって言ってくれたひと達に送ってもらって窓から顔を出して呼びかけてくれた恋人を見て私は幸せ者だなあってふと実感した時の記憶だとか。

きっと少しずつ擦り切れていくけど何処かでふと思い出して支えになる記憶。その記憶をくれた人達。今は心を占める訳ではなく、時折そっと「どうしてるかな」と想いを馳せるような柔らかさで想う。
それは自分にとっての誰かだけでなく誰かにとっての自分もきっとそうなんでしょう。そう在れていたら嬉しい。

ああこういうのが、あとはこれを食べていくだけで生きていけるっていう想い出か。
別に割れたばかりのガラスみたいな想い出ばかりを食べている必要はないんでした。

あと少し、そういう想い出を食べて生きてみましょうかね。そろそろ本当に余生かも知れないし。幸いなことに、想い出の蓄えはそれなりにあるようですし。

そういやなんかガラス食べる生物って居ませんでしたっけ。アメーバみたいなやつで。居ないか。ググっても出てこないや。

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