見出し画像

愛について

日々がしんどい時には、同じように絶望的な日々を過ごしていた頃の日記を参照するなどしてみる(歌詞書く時にもたまに参照します。黒歴史リサイクル)。
思春期の頃はブログやら古のmixiやらに恥も外聞もなく何があってどうしんどいのかなどそれはそれは赤裸々に心情を吐露していて、それはそれで強いことだったなぁと思う。如何なる形であれSOSを出せることは大事です。どうぞみなさんお出しくださいませね。
それにしてもすごい。とはいえ誰かを捕まえてのべつ幕無しに話し続けるんではなく拾ってくれるひとは拾ってくれよとばかりにインターネットの海に流す辺りはほんの少しだけど慎ましかったと言えなくもない。

あの頃周りに居てくれたひと達には随分支えてもらっていたんだなぁと改めて気付く。寮生活だったので、夜中に部屋に呼び出して美味しいお茶を淹れてくれたり、目覚めて目の前にある白い壁に絶望しながら起き上がれずに居る休日の朝部屋に突撃して来ては遊びに連れ出してくれたり。それぞれのやり方でそっと側に居てくれて助けてくれようとした事実が本当にありがたかった。今になって気付くのは、そういう支えてもらった記憶が今なお支えになるということ。今ここには彼ら彼女らの誰も居ないし(たまに連絡を取っている人は居るけれども)今のしんどさを直接的に救ってくれているわけではないのに、優しさをもらったその記憶だけでもう少し生きてみようかなと思える。

大人になって数年経ったある日、小学5年生頃に好きだった子からメールが届いたことがあった。
「いろいろしんどいけど、あのとき好きでいてくれてたことが今力になってる、ありがとう」
わたしがその子を好きだということがバレて以降避けられるようになった、なんて前期思春期らしいエピソードがあった子だったこともあって随分びっくりした。わたしの唐突な好意が忘れた頃に誰かを救うことがあるとは。

そう、誰かの好意は唐突に誰かの支えになることがあるらしい。

わたしが支えてもらったこともある。
前述のmixiに絶望を吐露していた黒歴史時代、手酷い振られ方をして何をしていても涙が出るくらいに絶望していた最中、何も言わずにただ呼び出して、共通の好きなアーティストの新譜CDをくれた先輩が居た。かつて好意を持ってくれていたひとだった。
彼自身は社会人になったばかりで激務の最中だし、わたしが他のひとと付き合ってからは連絡もほとんど取り合っていなかったのに、mixiを見て心配してくれたようだった。わたしの絶望には触れずにただ「元気ない時に聴くと癒されるよ」とだけ言って。
その時は別れのダメージに凌駕されてしまっていたけど、そういうそっと佇んで居てくれる好意は美しくて、じわじわと効いてきた。

とはいえ好意は暴力になることもあるのをわたしは知っている。
年齢だったり性差だったり肩書きだったりで自分の方が強い立場にある場合は特に。
好きなものはしょうがないのだけど、返せない好意を押し付けてしまうのは往々にして暴力になる。だってひとの好き嫌いなんて突然且つ仕方のないもの。どれだけ欲しくたって、相手も無い袖は振れないのだ。
そういう時、自覚的に距離を置けるかどうか。どう言い繕ったってしんどいものはしんどいのだけども。それでも。

その点で、そっと佇む好意をくれた先輩をわたしは心底尊敬している。先輩の方はもう忘れているだろうしむしろそれでいいのだけど、未だにわたしは支えられている。そしてわたしも誰かに好意を持つことがあったらそう在りたいしそう在りたかったな、とおもう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?