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『コトハの肖像』 後編

【あらすじ】興信所の高野と美奈子は、琴葉の依頼人、夫の康之を裏切り、琴葉の浮気を黙認。その代わりに、浮気相手の画家、時任尚から報酬をもらう作戦を考えた。しかし、琴葉と時任に接触しているうちに、誰が誰を愛しているのか、実は愛していないのか、理解しがたい言動に直面するようになる。一方、琴葉の挑発的で、だがプラトニックな誘惑に苦しむ時任は、ある肖像画に着手する。それは琴葉の人生を一変させてしまう『コトハ』の肖像画だった。

「依頼人の調査をするのはルール違反。着手金の三十万円を返却した上に、違約金百万円は取られる」
高台に停めた車から、双眼鏡で町村康之、琴葉夫妻の家を見ている美奈子に、高野が言った。依頼人は、町村康之。その依頼人の自宅での夫婦関係の調査をしているわけだ。町村康之からの依頼内容は、妻、琴葉の出先での動向。浮気調査なのだ。
「時任のベンツは新車。売れば八百万円くらい」
「契約したわけじゃないよな、時任と」
「琴葉と時任が結ばれれば、車が嫌いな琴葉に気を遣ってベンツはいらなくなる」
「その車の中のレイプ犯が時任ってオチは?」
「ない。十年以上前よ。犯人は琴葉が働いていた会社の上司で、レイプってほどじゃない。押し倒そうとしたら琴葉が嫌がった。それですぐにやめた。キスもしていない。まあ、それでも彼女みたいな運動音痴の女は怖いだろうね。わたしも相手の男が巨体だったらそれだけで怖い」
「旦那が年下なのはそのせいか」
町村康之は、三十七歳。琴葉よりも三歳年下だ。
「男盛り。よくセックスを我慢してるよ。弱いのかな」
高野がそう言うと、
「あんたと同じで遊んでるに決まってるでしょ。琴葉は気づかないのよ」
と言い、うんざりした表情を作った。
「ほっとこうぜ。そんなバカ夫婦。ようは、結婚契約で、お互いの自由な行動に干渉しないことにして、それを旦那の方は利用して女と遊び放題。妻の方は、男の部屋に行ってるが、キスさえしなければ浮気禁止のルールは守っていると思っていて、自覚なし。琴葉の浮気みたいな行動がばれても、旦那は許すよ。自分も浮気しているのがばれるとまずいからな」
「そうね。…なんであんな女がいいのかねえ。バカだな、あの男」
美奈子が双眼鏡を見ながら呟いた。だが、目は違うところを見ている。家の彼方、秋晴れの空だった。
「堕ちたよ、こいつ」
「なに?」
「なんでもない。旦那さんは仕事でいないね。今日は琴葉ちゃんはどこに行くのかな」
「今から、箱根の温泉。母親が来てるから子供は親に預けるみたいね。なんのゴミをまとめて渡してるのかな。やっぱ服か」
「どういうこと?」
「温泉? 初めてのエッチかな」
「いきなりベンツ、ゲットじゃないか」
「旦那にばらす前に時任に本気になっても困る。わたしたちは何も仕事をしてない」
琴葉が子供を母親に預けて、大きな鞄を持って駅に歩いて行ったのを見届けた二人は、事務所の軽自動車に乗り、琴葉と同じ旅館に泊まるために国道を走った。
「エッチ…セックスされるのは永久に困るんじゃないか」
高野が運転をしながら言うと、
「なんで?」
と美奈子が言った。
「気が変わっただろ、どこかで。美術館か。琴葉もあの美術館で時任に惚れたみたいだし、縁結びの神社に建て直した方がいいな、あの美術館」
「惚れてないよ」
「無理するなって。時任はおまえのタイプだ。ちょっと悪い感じで頭が切れる奴」
「惚れてないのは琴葉」
「え?」
思わず助手席の美奈子を見た。
「前を見て」
「その根拠は?」
「時任が買ってあげた洋服を捨ててる。全部じゃないけどね。気に入らなかったのとかかな。さっきも母親にビニールに入れた服を渡してた。明日、この辺りは布製品の収集日よ」
「それは確定だ。好きな男にもらった洋服をすぐに捨てたりしない」
「でしょ。琴葉は本当に旦那にメロメロ。時任のことはただ、尊敬しているだけ」
「で、おまえは何がしたいんだ」
長い時間、美奈子は口を閉ざしていた。高野がその問いかけを忘れかけた時に、
「わたし、ああいう女、大嫌いなの」
と、絞り出すように言った。
――何が幸せを願っているだ。わたしがあの女を不幸のどん底に突き落としてやる

寝室のベッドから埃が飛ばないように、作品にビニールシートをかけ、乾燥剤も入れ、部屋には空気洗浄機も入れてあった。琴葉も入ったことがない寝室兼、アトリエ。
『ベッドがあるからね。さすがに浮気になっちゃう』
琴葉はそう言って寝室には入らなかった。
「と言いつつ…」
時任がスマホのメールを見ると、「子供は預けてきたから部屋に遊びにきてね。トランプとウノ、持ってきたよ」と書いてあった。
旅館の部屋に布団を敷いてなければいいんだな。
と苦笑いをしてしまう。時任は15号の絵画を覆っている保護シートを取った。
「琴葉…」
それは琴葉の肖像画だった。満面の笑顔で車を見ているワンシーンを描いた作品だ。
作品名は『コトハノクルマ』だった。
『日本画家の歴史』の展示会の初日に、琴葉はやってきた。時任尚にとって名誉ある記念の日だった。日本史に残る偉大な画家たちの最後の方に、自分の代表作が一枚、飾られた。時任から買った女優の水本さなが寄与し、しかし、元カノの彼女は来館しなかった。
展示会場の絵画を自分も鑑賞していたら、何が面白いのか、屈託なく笑う女が立っていた。
たぶん、ピカソの絵に似た絵画が彼女の琴線に触れたのだろう。その笑顔が愛らしく、時任は見惚れていた。
時任の視線に気づいた町村琴葉が、笑顔をもっと大きくして、「わたし、先生のファンです」と言って、ポストカードを見せた。会場の売店で買ったばかりで、サインをしながら立ち話をした。
琴葉は、好きな画家がいなかった。ピカソ、エゴン・シーレら女のスキャンダルばかりの巨匠たちを「わたしの好みじゃないの。だけど絵は好き」と、笑って言う。
「『オフィーリア』は好きだけど、あの画家さん、優柔不断そう」とか「ブグローさんはロリコンっぽい」とか、どこか画家、芸術家を警戒している口振りだ。過去の恋人たちの肖像画も描いている時任は、「俺の恋は一日で終わった」と分かり、だが特にショックも受けずにその日はマンションに戻った。よくあることなのだ。一目惚れした女が、その日にいなくなることなど。
ところが、琴葉は翌日にまた来館してきたから、時任は、「お茶でもしませんか」と声をかけた。快く了解した琴葉は、時任が一人暮らしをしていることを喋った後、絵画とは違う話、そう家事の話をした時、「わたしが掃除しますよ」と言った。
時任は最初は期待をしてしまった。
「部屋にきたら抱かせてくれる」と思った。ところが、部屋の掃除が終わると、すぐに帰っていくだけで、手も握らない。だが背中を流してもらったことがあった。冬に空気が乾燥したせいか、背中に何か出来物が出てきて、それを琴葉に見てもらった。
「あー、引っ掻いた後のかさぶた。毛穴も汚れてる。不潔だなあ」
と言った。
「いや、そのかさぶたがあるから洗えないんだよ」
と弁解すると、「わたしが流すよ。脱いで」と言った。
全裸になって下半身にタオルを乗せて浴室に座ったら、琴葉は服を着たまま、スカートの裾を捲って風呂場に入ってきた。ふくらはぎはまだ細く肌も艶があり、引きしまっている。そしてかさぶたが取れないように、背中全体を石鹸で洗ってくれた。
「興奮しないで」
「え? してないぞ」
「本当に?」
タオルに隠された時任の下半身をあからさまに覗き込んだ。
「見たいのか」
「まさか。悪いことをしないか確認したの」
「旦那のより大きいんじゃないか」
「へへ、わたしの旦那は日本一なんだから」
「へえ、巨根崇拝なんだ」
「崇拝するわけないでしょ。この悪魔みたいなものを。でも小さいのは子供みたいに見えちゃうかな」
ーーほう。男のあれが小さいのは嫌いか。変なカミングアウトだな。セックス嫌いなら、小さいも大きいもどうでもいいはず。しかも、このシチュエーションで?
「へー、じゃあ、俺も見せようか」
タオルを捲ろうとしたら、
「ふざけないでね。帰るよ。この背中の傷も痒いからやったんじゃなくて、女が引っ掻いたんじゃないの?」
と琴葉は怒った。怒ったと言っても、呆れた口調で、「そしたら、その女が背中を洗ってるか」と、自分も女の顔を見せて時任の顏を覗き込んだ。バランスを崩したらキスをしてしまう近さ。その妖艶な目つきで、そして笑顔も見せたままの態度を琴葉は直さず、時任のお尻の近くもタオルで洗った。タオル越しだが、琴葉の手の動きがよくわかり、彼女も躊躇しているのか、時々、その動きがぎこちなくなる。
――まずい、興奮しそうだ。
「琴葉、もういいよ。男性メンズエステみたいだ」
「なにそれ?」
「かわいい女が、ここ以外を全部洗ってくれる風俗だ」
「へえ、やってもいいよ。タオル越しでそれなら浮気じゃないから」
「浮気だ、バカ」
風呂場から押し出すと、「時間がないから帰る」と声がして、時任は嫌われたのかと思い、蒼白になった。
「月曜日にきていい?」
すぐに琴葉がそう言った。
「え? いいよ」
――嫌われてなかった。死ぬかと思った。
玄関を開ける音がした。
「電車の中で男性メンズエステって調べておこう。美容じゃないのか。なんだ、それ」
と、ブツブツ言ってる声が聞こえて、時任は思わず笑っていた。
「旦那のセックスに夢中なんだな」
少しがっかりして溜め息を吐いたが、後に「旦那とはセックスレス」だと分かってきて、もやもやするようになった。『コトハ』に着手したのはその頃だった。そう、最初は『コトハ』という作品だった。
――琴葉はベッドの中でこの笑顔を消したら、どんな表情を作るのだろうか。どんな顔でエクスタシーを得るのだろうか。
琴葉が来る前日は仕事も家事も手につかなくなり、琴葉に「ちゃんとゴミをゴミ箱に入れてよ」と叱られるようになった。
「ちょっと疲れていてね」
「それを癒すために来てるんだけど」
――いや、おまえのせいで疲れてるんだ
「男性メンズエステ、調べたけど、あれはだめだね。女の子は下着みたいな恰好でぎりぎりまで素手でマッサージしたり洗ったり…。セックスはしないだけで二時間くらいずっと触ってる。いくらわたしに色気がなくても素手でギリギリまで触ったら、なお先生もわたしを触りだすよね。危ない」
「その風俗は男は触ったら禁止なんだ」
「どっちが好き? 触られるのと触るの?」
「どっちも好きだよ」
「面白くない答え。旦那と同じじゃ、困るな」
「意味が分からない」
「なんか聞いたら、どっちでもいいって言う人だからね。なお先生は違う話をしてほしいな」
「そうか。そうしたら、なんか俺にメリットはあるのか」
「うーん、わたしが楽しい」
「なるほど。疲れてなければずっと抱いてるよ」
「うわ! 疲れてて良かった。押し倒されたら大変だ」
「あのな…」
「はい。洗ってあげる。脱いで」
琴葉は「時間がないか」と、いつもの台詞を言いながら、時任を風呂に押し込んだ。
「わたしは脱がない。背中だけ洗う。それは浮気じゃなくて、なお先生が癒されるでしょ」
「そうだね。色気もないらしいし」
背中を流してくれたのは冬の間だけだった上に、それをしていると掃除ができなくなることが分かり、背中を流すエロチックな行為はなくなっていってた。
――懲らしめるわけじゃないが、いなくなっても寂しいしな
時任はそう思い、まだ背景がない『コトハ』を完成させるために筆を手にした。『コトハノクルマ』として。


時任は寝室でその絵を見ながら、
「久しぶりに一緒にお風呂とか言いそうだなあ」
すぐ、隣にある旅館を窓から見ていたら、メールが入った。
『着いた。一緒に温泉に行こう。だけど、男女別。混浴なんかないよ。家族風呂はあるから久しぶりに背中を流す。水着持ってきたから』
「ほらね。まあ、どんな水着か見たいのはあるな」
時任はスマホと財布、下着だけを鞄に入れて、旅館に向かった。
だが、そこに琴葉の姿は見えなかった。

「高野興信事務所の三枝美奈子です。こちらは社長の高野誠一郎。本当はこうして依頼人に報告する前に、本人に教えたら違反だから、違約金を払わないといけないんですよ」
高野が取った部屋に連れ込まれた琴葉は、
「依頼人?」
と首を傾げた。
「廊下でも名前を出したけど、町村さん。あなたの旦那からの浮気調査よ」
そう教えると、琴葉はうっすらと笑みを零した。
「なに?」
「夫の友達とか言って、なんだ、探偵さんか。先に彼に、あ、なお先生ね。メールしていい?探してるかもしれない」
「いいわ」
琴葉はメールで『もう女湯に入った。長いから、なお先生は男湯で待っててね』と書いた。
「ハートのマークも入れるのね」
「だめなの? 誰にでも入れるよ。他にもボーイフレンドはいるし」
「だけど、部屋まで行ってるのは時任さんだけよね」
「以下、盗聴器がないか教えて下さい」
美奈子が目を丸めた。
「ありますよね」
観念してボイスレコーダーを出すと、「まあ、あってもいいや」と笑う。
「なんで?」
「浮気してないから」
「旦那さん以外の男の部屋に入ってますよね」
「うん。ダメなの?」
「旦那さんに報告していいかな」
「いいよ。浮気じゃないから」
「浮気だと思いますよ。旦那さんに内緒で男の部屋にずっと通っていたら」
「町村から違約金を取られるのに、なんでわたしに教えるんですか。だから、そのボイスレコーダーがあってもいいって言ったの」
「なんにも知らないおバカなお嬢様かと思ったら、そうでもないのね。何か隠してますか」
「幻聴が聞こえた」
つんとした態度に変わった。
「早く温泉に行きたい。このままじゃ、なお先生とすれ違いになって、お風呂の出入り口で待ち合わせる、かわいい女ができなくなっちゃう。色気がないからせめてそういうことをしたいの、わかりますか」
「彼を誘惑してるの? 彼で遊んでるの? まあいいわ。時任尚のマンションに通っていたんじゃなくて、わたしと箱根で遊んでいた事にしてあげる。わたしは町村さんと会ったことがないし、一緒に観光したり美術館に行ってる写真を見せれば旦那さんは納得するわ。その代わり、時任尚との奇妙な関係は続けていい」
「へえ、あなたたちにメリットはないんじゃないの」
「琴葉さんは知らないかもしれないけど、時任尚はけっこう後ろ盾が多いの。どっちに付いたら得か考えたら、時任尚と琴葉さんに付いた方が得って、考えただけ」
美奈子は、旅館に入る前に高野にこう言った。
『違約金を払うことになっても時任からそれ以上のお金をもらえる。時任は、琴葉と絶縁したくない。その協力をすればいいのよ。だけど、この関係を続けていればそのうちに離婚になる。わたしたちとは関係ないところで修羅場になってね。そこから、琴葉の不幸が始まるわけ』
と説明した。
『怖いな、女は』
『あのね。時任が被害者よ。わたしはたまには人のために働こうって思ったの。時任は、琴葉と出会ってから二人の女と別れてる。例の若手女性議員と世界的有名なファッションデザイナーの娘よ。ファッションデザイナーの方とは会ってきた。別れたつもりはないそうよ。部屋に来ないでほしいって言われてるだけで、彼女はプロポーズを待ってるわ』
『部屋に来ないでくれって別れてほしいって意味だけど、日本人ならその曖昧な言い回しで分かるもんだがね』
『それが土日は来ていいって最近まで、時任が言ってたらしくて、はっきり別れたことにはなってないの』
『最近?』
『時任が、今頃になってもっと琴葉を好きになると思う? 良いも悪いも何か新しいトラブルがあったのよ。それはおいおい調べるとして。まずは時任側に付くのが、わたしたちが儲けるチャンスってこと』
琴葉は座布団の上で女らしい座り方をしているが、時任から買ってもらったワンピースが汚れるのを気にしたのか、お茶を飲もうとして、その手を体から離し、少しずつ湯呑をテーブルの上で真ん中の方にずらしていった。
「お茶を零しそう? ずいぶん神経質ね」
美奈子が訊くと、
「たまに手が震えるので」
と真顔で言った。
「時任から買ってもらった洋服を汚したくないの? 捨ててるわりに」
「捨ててる? 家のゴミ置き場まで見たんですか。それ、犯罪にならないの?」
と、琴葉は語気を強めて言うと、本当に右手が震えてきた。
「気分悪いな、いろいろ思い出して」
「そっか、ごめんなさい。あなたも、肉体関係がない男と浮気だと思われて、旦那と離婚の危機になったら困るでしょ」
「肉体関係ですか。ああ、実は背中を流していたこともあったんです」
「え?」
あっけらかんという琴葉に、高野が、
「君は常識ってやつを知らないようですね。セックスをしてなくても、そこまでしたら浮気ですよ」
と言った。
「違約金っていくらくらいですか」
「二百万円弱かな」
高野が教えると、
「それ、なしにしてあげます。旦那はわたしにメロメロ。なんでも聞いてくれる。だから大好き。その代わり、わたしの依頼を無料で受けてくれますか」
「え?」
美奈子が思わず声を上げた。丸めてしまった目の瞬きすらできない。
「わたしをレイプした男を探して」
「それ、会社の上司でしょ」
「違うよ。あの人は、抱かせてほしいって言っただけでわたしが断ったらなんにもしなかった。わたしはその一年後くらいに本当にレイプされたの。車の中に引っ張り込まれて。それで男性恐怖症になった」
「それは辛いと思うわ。知らなかった」
琴葉の右手がまた震えてきたのを見た美奈子は、同じ女性として琴葉に同情した。常識がないのもその時の後遺症なのかと思い、美奈子は、自分たちの計画を変更しようかと不意に思った。
時任との『浮気』をいったん隠蔽し、二人からお金を受け取る。肉体関係ができるかトラブルが発生した時に、町村と琴葉の夫婦関係を悪化させる。二人が仲睦まじく喋っている写真を匿名で送り付けるなど、なんらかの方法で追い詰めるのだ。路頭に迷った琴葉は時任の所に行くと思うが、そこには婚約者のファッションデザイナーの娘、飯野唯がいる、という修羅場の連鎖を狙っていた。
「その時に病院に運んでくれた通りかかった人がいて、妊娠もしなかった。どっちかと言うと、そっちの男性を探してほしいな。レイプ犯と向き合う元気ないや。その後にわたしを口説いたのが町村。彼はわたしを以前から好きだったらしくて、わたしの結婚の条件も飲んでくれた。子供は欲しかったから、けっこう妊活のセックスはした時期はあった。だけど、基本、セックスをしない男は最高。旦那は風俗でやってるかもしれないけど、わたしに襲いかからなければそれが最高なのよ。そんな夫を愛してる。それにしても、なお先生、我慢強い。口でやってとか手でやってとか言ったら殺すつもりなのに、言わない」
「は? あなた、今、なんて言ったの?」
美奈子が声を上げた。高野は体を固まらせている。
「なお先生はレイプ犯じゃないよ。あんなでかいミニバンに乗ったことがない。ずっとスポーツカー。レンタカーでも箱みたいな車に乗らない。だけど似てるんだ。あの雰囲気。顔も似てるような気がしている。女がいるのに他の女にも惚れる。女の肖像画もいっぱい。鋭い眼光で女を見つめて堕とそうとする。女の下着を持っていたり、セックスのことも詳しい」
「あなたをレイプした男が女の下着を持ってるとは限らない。時任さんに失礼じゃない?」
「あ、レイプ魔が女の下着を集めてるのは妄想ね」
「その軽い言い方はやめたら?」
「重々しく喋ったら、浮気になるし、さっきのは警察に通報されそう。あなたたちバカね」
「……」
「さ、お風呂に行こう。男女別なの。混浴があったら、また生殺しにできたのに」
「く、狂ってる」
美奈子がそう言うと、
「狂ってるのはレイプ犯ですよ。少しは言葉を選んでくださいね」
と琴葉は反論した。それはまっとうすぎるほどの正論だった。
「どうする。ファッションデザイナーの娘にも何か頼まれたなら三重契約になって、俺らこの業界から干されるぞ」
「日本なんていくらでも仕事がある!」
美奈子は声を荒げて畳を両手で叩いた。一瞬、同情したが違った。
琴葉はレイプ犯に似ている時任尚を弄んでいるのだ。

一週間後。
高野の事務所に琴葉の夫、町村康之がやってきた。
「中間報告があるとか」
温厚そうな顔立ちの青年だった。町村は事務所のソファに座り、「煙草は吸っていいですか」と訊いた。
「いいですよ。報告というか奥様のことで訊きたいことがありまして」
高野が切り出す。美奈子は当然、外出していた。
「なんでしょう」
「結婚する前に、何か事件に巻き込まれてますよね」
「ああ、なんで調べたんですか」
「調べてませんよ。奥様、お喋りなんで、ご近所の友人に少し喋ったようです」
「ママ友にか。まあ、なんでも喋る女だからね。レイプでしょ。知ってますよ。俗に言う、弱って泣いている女の子を私が口説き落としたってやつです。だけど、実際に好きだったし、チャンスだったから」
「もちろん私も男。お気持ちはわかります。私も彼氏と別れたばかりの女を口説いたことはあります。レイプ犯は捕まってないってことは警察には言ってない?」
「琴葉がレイプされた状況を話したくないそうで、私も詳しくは知らない。聞くのはかわいそうでしょう」
「レイプされた時の話は私も聞きたくないんですが、それ以外の、例えば、犯人の車とか妊娠しなかったのかとか、それくらいは知ってますか」
「車は大型のミニバンですね。住宅街の一角で、防犯カメラがない場所。そのまま広い公園の方に車で連れ込まれて、車の中でやられた。と、琴葉は言ってる」
「言ってる?」
「話がよく変わるから、よほど錯乱してたんでしょう。だから問い詰めない。あいつは可愛いのに無防備な性格だからぼうっと歩いているのを狙われたようです。それで、その公園に放置されて、だけど、知っていた公園だったから自力で帰宅しようとしたら、通りかかった男が事情を聞いて、病院に連れて行ってくれた。すぐにアフターピルを飲んで、妊娠はしなかった。病院には、いったん、その知らない男とのセックスで避妊に失敗したって説明したようですが、後から琴葉が実はレイプだったと、例によって喋ってしまったらしくてね。だけど、警察には知られてませんね」
「ふーん、町村さん、お車を持ってませんが、奥様は車が怖いんですか」
「そうです。持ちたいんですがね、私は。だけど妻が乗らないんじゃ、もったいないかな。買い物も彼女がテキパキしてきますし」
高野は、琴葉が言った『夫はわたしの言うことはなんでも聞く』という言葉を思い出した。町村の煙草が三本目になったのを見て、
「ずいぶん、ヘビーですね。奥さんは、煙草はいいんですか」
「結婚する時に、いろんな条件を突き付けられた。当時の琴葉は特に警戒心も強かったし、当然男が嫌いになっていた。まあ、どんな条件も飲むつもりだったけど、こっちも少しはと思って煙草だけは許してくれって頼んだら、OKされた」
「庭で吸ってるんですね」
「いや、部屋です。庭で吸うと隣の人が嫌な顔をする。肩身が狭いですよ、愛煙家は」
「娘さんの前で吸ってるんですか。なんか雑談になってしまうけど、興味あります。私は煙草を断念しました」
「そうでしたか。今は空気清浄機が優秀で部屋で吸っても問題ないですよ」
「本当ですか」
「いやー、あっという間に煙が消えます。それを見てるのも楽しい」
「それなら奥さんも怒りませんね。なんだ、俺も買おう」
高野が部屋で煙草を吸って、恋人に怒られたのを思い出して苦笑いをした。
「いや…」
町村は一回、言葉を止めた後、
「恥ずかしい話なんですが、今は空気清浄機が故障していて」
と苦笑いした。
「あんなの安いでしょ。私、今から買いに行こうと思ってますよ」
「あなた方に現金を渡した上に、ボーナス払いのクレジットは、4Kテレビとそれに対応したブルーレイ。加えて、琴葉が箱根に行くための小遣いを増やされた」
「箱根に行っているのは知ってたんですね」
「美術館が好きだし、例のレイプ事件で助けてくれた男性が箱根の人だったらしい。車の中に、箱根スカイラインの半券がいっぱいあったとか。探してるんだと思います。警察にも頼まないで見つかるわけないと思いますね。あなた方のような人に頼むお金もない。私が増やした小遣いは何か買ってるのかな、服か」
「訊けばいいじゃないですか。何を買ってるのか」
「そこに干渉しない約束なんで」
徹底してるな。たんに、琴葉を離したくないからか。そうだろう、こうして浮気の調査も依頼してきたのだし、妻を助けてくれた男を一緒に探す気もない。万が一でもその男に奪われるのが怖いのか、と高野は思った。「旦那がワルかもよ」と美奈子は言ったが、確かに善人ではない。悪党でもない。なんだろう。そう、女を愛したことがない男か。琴葉は愛してるが他の女には優しくもしないし、自分以外の女に無関心の男は、女から見れば善人に見えるタイプ。琴葉は美人だから離したくないだけ、美人妻がいた事実の人生を送りたいだけか。実際に一緒に歩いていたら誇らしいだろう。だが、琴葉の悩みのために頑張ったのは最初だけ。
「話を戻しますが、レイプされた奥さんを助けてくれたその男は誰かまったく分からないんですか」
「わかりませんね。ただ、琴葉は、その男も怖かったそうです。車で運ばれたから、続けてレイプされるんじゃないかと思って病院に着くまでは生きた心地がしかったらしい。今はもうそれはなくて、先程も言いましたが、お礼を言うために適当に探してると思います。美術館やらに行った時に捜してるんじゃないかな。最初からですからね」
「最初から?」
高野が町村をじっと見た。
「退院した直後からです。私が口説いてる最中も捜していた。忘れられないのは分かるからいいんですが、行方不明の恋人を捜しているみたいで……」
ーー琴葉に対しては本気だったんだな。この男は変人だが、悪人じゃない。琴葉が別の男をずっと見てるだけ。それを良しとしてる。浮気しなければ、離婚しなければ…
「その男の車はポルシェで、まさか、あいつは箱根の峠道でポルシェを眺めてるわけじゃないですよね。それは危ないから、もしやっていたら、通りかかった地元の人のふりをして注意してくれますか」
「ポルシェ? まあ、箱根は多いですね。走り屋の聖地みたいな場所です。奥様がそんな危険なことをしている様子はないですよ。ご安心ください」
「そうですか。その男、迅速な対応だったようです。日曜日だったけど、すぐに総合病院に到着して、婦人科の先生が出勤してきたとか」
「ほう」
ーー日曜日に当直医以外の婦人科の医師がやってきたのか。病院の近所に住んでいただけか。
「まあ、その時、その男に琴葉が惚れなくてよかったですよ。その後、私のところにきて泣きついたから、今の家庭があるわけです」
町村が帰った後、近所のカフェに隠れていた美奈子が戻ってきた。
「なによ。時任が昔に乗っていた車を調べろって」
「もう調べただろ。時任尚のストーカーは」
「失礼な。でも調べた。ネットは怖いね。時任の熱狂的なファンが、彼の愛車の話を書き込んでるSNSを見た」
美奈子は苦笑いをしながら、車名を列挙していった。
「二十五歳くらいからね。ホンダ、ポルシェ、またポルシェ、911よ。ここまでは中古。以下新車で、またポルシェ、色はシルバー。ベンツ、またベンツ。最後のは今のイエローのCLAのAMG」
「もう一回」
「え?だから…」
「じゃあ、琴葉と出会った頃。つまり五年くらい前はなに?」
「えーと…。ポルシェに決まってるじゃん。ホンダはすっごい若い頃だけで、ずっとポルシェよ。よくいる911マニアだったんでしょ。でも、画家として売れてきたら接待も増えてきて、ベンツに替えたんじゃないの。だって琴葉と出会った頃からが彼のピークが始まってるの。あれ? あの女、セックスもしてないのにあげまんか。あの二台目のベンツは最新ので価格は九百万円弱。ようは、時任は車マニアね」
「朗報だ、美奈子。いや悲報かな」
高野は立ち上がると、天を仰いだ。
「どっちも聞くのが怖い」
美奈子が力なくソファに座った。耳を塞ぐ仕草も見せた。
「町村琴葉は時任尚を愛してるぞ」
美奈子は顔を上げて、
「なんで車で分かるのさ」
と不貞腐れて言った。
「琴葉がレイプされた時、彼女を助けたのは時任かもしれない」
「え?」
「それを琴葉が知ってるかどうかはともかく、時任を殺すとか言っていたあのセリフは、俺たちをかく乱させるための嘘だ」
「嘘? あれが」
「よく聴きなおしておけ。夫を愛してる、続けて、なお先生を殺す。ボイスレコーダーにあるあの台詞を旦那に聴かせたら、言い寄ってくる画家を嫌っている証拠になる。温泉に一緒に行くのも、部屋の掃除も無理強いされていたって言えばいいんだ。レイプされた過去があるから、男に迫られると怖くて断れないと言える。琴葉の旦那が時任に怒っても平気だ。セックスはしてないし、時任には権力者の仲間がいる。そこまで考えている、あの女」
「うわ、画家との関係だけに典型的なファムファタルか」
美奈子が肩を落とした。
「琴葉は、時任に夢中。時任もそうだ。だが、二人ともそれを正直に言わない。ピラミッドの底辺に何も知らない町村康之がいる。その上に俺たち。その上が琴葉だ。ピラミッドの頂上にいるのは誰だ」
「頂上から、皆を見下ろしてるのは魔性の女じゃないの?」
「あの手の震え。時間を制約されている焦り。洋服を汚せないか弱さ。あの女は天才でも頂上にはいない」
高野の言葉に、美奈子は言葉を失った。何か言おうとしたが、「ファムファタルを倒す男を見たいけど…」と口の中で呟き、「…怖くなってきた。今から湘南に行く?」と高野に言った。

「また煙草の臭いが取れない」
琴葉は、時任から買ってもらったワンピースに顔を埋めて、「くそう。消臭剤と混ざって、余計に臭い」と唸った。
『なお先生は煙草が嫌い。寝室に入って作品に煙草の臭いがついたらまずい。だけど、買ってもらった服で会いに行きたい。町村に煙草をやめるように言ったら契約と違うって言われるし、離婚もしたくない。空気清浄機が壊れた後、トイレで吸ってたから、トイレの壁に臭いがついてしまった』
時間がない時に、普段着に着替えずにトイレに入ると、時任から買ってもらった洋服の袖などに煙草の臭いがついてしまうのだ。頭にきてトイレの壁の叩いたり、ドアを蹴ったりしたら、余計についてしまっていた。
『なお先生はあの有名ファッションデザイナーの娘と結婚すればもっと飛躍する。セックスもろくにできないわたしとは友達でいいんだ。ずっと…

……背中を流してあげていたい。あの思慮深い顔を見ていたい。作品創りに苦悩する顔。偉人の作品に嫉妬するかわいい表情。死ぬまで、見ていたい。

琴葉はスマホを手にし、メールで、『ごめん。新しい服、買ってくれる? ちょっと太ったんだ。なお先生、わたしの体にジャストサイズを買わなくていいよ』と書き、煙草の臭いがついたワンピースをビニール袋に入れた。
『幸せ太りに、また服を買うのか』
と返信がきた。
『ごめんなさい。住宅ローンがあるから家計が苦しいんだ』
とだけ返す。すぐに『分かってるよ。今のは世話をしてくれる琴葉が好きな俺の皮肉だ』と返信がきた。
琴葉は、好きにならないで、わたしには愛する夫がいるのよ、と書いたメールを送信せず削除した。
――時々、好きって言ってくれる。別れたくない。
琴葉は、娘の琴音を連れて近所の公園に散歩に行った。
「ママの話、パパに黙っててくれる?」
小学二年生の琴音は、
「あー、ママ、浮気したんだ」
と笑った。
「バーカ。ママ、箱根にある美術館が好きなの。お金持ちがいっぱい来るんだ。駐車場には、ポルシェとかフェラーリとか…どうやってあの山道をでかいフェラーリが走るんだって思う」
「お絵描きが好きだって言ってたのに」
「絵も好きよ。昔、ポルシェに乗っていた男性に助けてもらって、なのにお礼を言ってないのね。でね、お金持ちがくる美術館に通えば、そのお礼を言いたいおじさんに会えるかもしれないと思って、ずっと通ってたの。そうしたら、たまたまお絵描きが上手なおじさんが、ポルシェに乗っていたから、わーいって思ったの。色が違ったけど、一瞬、ママを助けてくれた人に見えてドキドキしたなあ。なのに、すぐにベンツに乗り換えたんだ。がっかりだよ」
と苦笑いをした。
「パパに買ってもらえば?」
「パパ、ポルシェ、似合わないし、お金ないし、その車、琴音も乗せられないんだ。まあ、中古でもいいんだけどね。中古でも高いか。ママを助けてくれた男性に似てる人じゃないと、あんまり意味がないしね」
「お絵描きのおじさんは似てるの?」
「なんとなくね。ママを助けてくれた人は、ジョークが上手くて、行動力があって、スリムでイケメン。だけど車の中が有料道路のレシートでいっぱいだったのが印象的なんだ。ママ、気が動転していたからよく覚えてないの。でも、お絵描きのおじさんもそんな人なの。ママがレシートとか領収書を入れるかわいい箱を買ってプレゼントしたのに、箱からレシートが落ちてるんだ。ゴミの分別も下手くそ。たぶん、机の椅子に座ったまま投げるんだろうな。見たいなあ。三日くらい一緒にいたら見られるのかな。三日一緒に暮らしても、体に触ったりしなければ浮気じゃないよね」
琴葉は夕日を見ながら、「キレイ」と呟いた。
その瞳が潤んでいるのを見た娘が、「眩しいの?」と言った。

土曜日に、『印象派の巨匠たち』の美術展を見ながら、カフェでお茶を飲んでいた時任は、目の前の席に美奈子が座ったのを見て、
「土曜日だから琴葉じゃないのは分かるが、唯でもなくて君か」
と笑った。
「飯野唯と急に会わなくなったのはなぜ?」
「振られたんだ」
「そんな嘘がわたしに通じると思う? 彼女はあなたのことを好きで、結婚するつもりでいるわ」
「琴葉が、唯の下着を見つけて捨てちゃったから、ばれたら破談だよ。あいつ、俺のことを元カノのパンツを大事に持ってる変態だって言ってた。まあ、ブラ、ストッキングも合わせるとかなりの枚数だからな。クローゼットの中を探すなって思うよ」
「感情的になって本心が出たのね。あの美人妻」
「?」
時任が目を丸めると、
「あなたもお芝居を続けて、もう四年経過。マゾ?」
と侮蔑するように言い、口角を持ち上げた。
「その女の下着、琴葉は飯野唯のだと分かってて、本当は捨てたらまずいと思ったけど、急に女になって頭にきて捨てたのね。わざわざ、旅館にまで泊って。そうでもしないと、あなたが捨てないって分かったのよ。朝、旅館から出てきて、部屋に上がり込んでゴミ捨て場に持って行ったんじゃないの? 琴葉がいつものようにお昼にやってきたら、あなたは捨ててないよね。ゴミ収集車、朝に来るから。飯野唯の下着なら、たぶん、セックスの後か最中の替えのかな。琴葉にしてみればライバルの使用済みパンツ。まあ、必死に捨てるわ」
「唯は滅多に部屋に来ないから、古い下着もあって、まさに使用済みパンツだな」
「汚いなあ。ちゃんと洗ってあったの?」
「当たり前だよ」
「でも汚れが残ってて、琴葉、頭に血がのぼったのね」
「へー、琴葉、そんなに俺が好きなのか」
バカにしたように笑うと、
「そりゃあ、命の恩人みたいな男と似てるからね」
と間髪入れずに美奈子が言った。
コーヒーカップを持っていた時任は、その手を止めた。
「あら、似てるんじゃなくて本人だったのかしら。青いポルシェのお兄さん」
展示作品のポストカードや書籍、グッズが売っている方に顔が向いていて、目だけを美奈子に向けている。
「怖い」
「ただじゃ、すまさないよ。それを琴葉に言ったら」
「どうして? まさに琴葉は感動して、あなたの胸に飛び込んでくる。駆け落ちみたいになって、二人は北海道の田舎町で幸せになるとかありそうじゃない?」
「セックス恐怖症の女と結婚してもな。生殺しってわりとストレスなんだよ」
「その利発な頭脳で、レイプの傷を癒していけばできるようになると思うな」
「なんの応援団だ」
「あのベンツを売って、琴葉の好きなポルシェを中古で買って、そのお釣りをもらおうかなって」
「中古でもそんなに出ないと思うな。けっこう高いポルシェだったから」
「なんでもいいんじゃない、同じ色のポルシェなら。あの子、車に詳しくないし」
話をしたくないのか、展示会場に向かうために、席を立った時任に、
「月曜日に琴葉、来るよね。また三十分?」
「長くて一時間。だからなんだよ」
「お出かけ用の洋服が足りないらしいよ。旦那さんが中間報告を聞きに事務所に来た時に、そんな話をした」
「買え、買えうるさいから、こっちも選ぶのに大変なんだ。自分で買う暇がないって言うし」
「旦那が買ってくれた服じゃ、あなたと会うのが嫌なの。女心が分からないんだね」
「琴葉が愛してるのは旦那さんで、俺じゃない。もし、俺のことが好きでも二番目。二番目でしかも寝取ることもできないんじゃ、ストレスが溜まるだけだ。男心がわからないんだ、君は」
「男のことはある程度は分かるけど、あなたのことはさっぱり。それから、旦那がヘビースモーカーなの。情報料、五千円ちょうだい」
「知ってるから上げない」
「あら、さすが。どうして?」
「わりと接近するから髪の毛から臭う」
「なるほど、あの子、髪の毛は仕方ないと思ってるのか盲点で気づいてないのか。あなたからもらった服の消費が早いのは、煙草の臭いがつくから。旦那の臭いを、あなたに移したくないのよ。たぶん、作品にも」
「作品には移らない。保護してある」
「じゃあ、ベッドかしら。実は添い寝でもいいからしたい琴ちゃん」
「館内は静かに」
「?」
「もうすぐ俺の逆鱗に触れる。それでもいいのか」
顔を近づけて言うと、
「わかった。とりあえず帰る。わたしは…」
美奈子はいったん言葉を止めると、
「最初、琴葉が嫌いだった。だけど、今はあなたではく、琴葉を応援してるの。勘違いしないでね」
と言って、カフェから出て行った。

『旦那さんは良い人だけど、レイプされた傷は癒せない。琴葉が二股気味なのはイライラするけど、いろんな事に怯えてるから仕方ないか。女のわたしが同じ経験をしたら…。うん、悪夢の妊娠も避けられてすぐに結婚もできて、時任尚は命の恩人のような男になる。会いたいよね、その恩人に。本当は目の前にいるんだけど。…時任は恩着せがましくそれを言いたくないのか、琴葉の家庭を守りたいか…ファムファタルの上に立ってる男なんか何を考えてるのか分からなくて、わたしから琴葉に言うのは怖いし。でも、琴葉が、せめて30分じゃくて丸一日くらい会っても許される関係に持って行ってあげたい』

美奈子は銀色の屋根とガラスの壁や扉が目立つ美術館を見上げて、「ここ、やっぱり縁結びの神社に建て替えよう」と笑った。

◆十一年前。

買ったばかりポルシェで鎌倉や葉山、江の島を走り回っていた時任は、住宅街で泣きながら歩いている女を見かけた。シャツははだけていて、両膝が赤く腫れていた。
「すぐに病院に行こう」
と言うと、琴葉は時任を見て、小さく頷いた。車に乗せると、まるで冬に捨てられた子猫のように大きく震えだした。
「こ、この車、悪いことできませんよね」
と言う。
「スピード違反はできるぞ。悪いだろ。だけどあっという間に病院だ」
そうジョークを言うと、琴葉は少しだけほっとした表情を浮かべた。
日曜日だったから、絵画収集が趣味で、地元出身の竹ノ内俊郎外務大臣に電話し、大臣の妻が通院している婦人科の医師を紹介してもらった。時任尚をかわいがってくれている大臣だった。
すぐにその医師が勤務している病院に行き、出勤してもらい、アフターピルを飲ませ、膣洗浄をし、安定剤を点滴させた。眠っている琴葉を医師に任せて、時任尚は病院から去った。
外務大臣の竹ノ内は、自分の娘と画家が結婚することを望んでいて、才能のありそうな若手の画家を見つけては小規模の芸術家支援パーティーを開いていた。税金ではなく、地元からの寄付金だった。
外務大臣の娘は、二年前に画家ではない男と結婚したが、時任の絵は好きで、今も交流がある。時任は今の彼女である有名デザイナーの娘、飯野唯と付き合っていた。
その頃に出会ったのが、町村琴葉だった。交流はあるが深い仲ではなく滅多に会わない外務大臣の娘と、最近、土日にも会わなくなった飯野唯。琴葉が現れてから二人の女と別れたと勘違いしたのが、高野と美奈子だった。
琴葉との美術館の出会いは、正確には、再会だった。
十一年前、髪の毛に茶色のメッシュを入れていた時任尚を、琴葉は自分を救ってくれた男性とは思わずに、単純に、作品が好きで友達になった。
時任も最初は、琴葉があの時の女性だとは分からなかった。当時の琴葉は若く、ショートヘアで女子大生のような服装だった。しかし、「男に押し倒されたことがある」「セックスは嫌い」と、時々口にする琴葉を見ていて、時任は、『あの時の女の子か』と分かった。
琴葉が、病院に「助けてくれた人を探している」と言っていたらしく、だが、時任と竹ノ内は「助けたのに警察沙汰になったらいろいろ困る」と、まっとうな正論で病院に口止めをした。
婦人科の医師は、美術館の女が誰なのか確認にきた時任には、「時任先生が助けた女性は町村琴葉さん。旧姓、菅原琴葉」と言い、カルテを見せてくれた。妊娠はしておらず、今の娘は夫の子。事件の後にすぐに結婚していた。
『事件のことを知って結婚したなら、良い男なんだな』
と、時任は安堵したが、琴葉の屈託のない笑顔、男の世話が好きな女らしさ、笑わせるためにバカに徹したお喋りに惹かれていった。セックスをさせない際どい行為さえなければ、最高に癒される女だった。

月曜日の昼前。

琴葉がマンションに入ると、時任がいなかった。
「あれ?」
慌てて鍵を防犯装置のボックスにさし込んだ。それをしないと、警報が鳴り警備会社の人たちが駆け込んでくる。窓から月極駐車場を見ると、彼のベンツもない。
――わたしが来る時にいない? こんなの初めてだ。まさか、生殺しにうんざりして振られたのか。この前の水着はダサすぎてバカにされたし
「よし、マグロ女で勝負してみよう。五分くらいでも喜んでくれるかな。ごめんなさい。康之さん」
危機感がなく、そんな独り言を言いながら、寝室の扉を開けた。万が一、煙草が服に付いていたら気になるのか、扉を開けただけで中までは入らない。
「ふふ、ここにもきっと女のパンツがあるな。新品ならもらって帰るぞ」
斜行カーテンが閉められている寝室兼、アトリエを琴葉はじっくりと眺めた。ベッドは小さなソファベッド。作品が、ずらりと並べられ、また失敗作は重ねて積まれていた。
その一角に、描き上げた新作らしい水彩画があった。
印象派と写実派の両方の技法を取り入れているトキトウナオの絵画は、一目見て、どんな絵か分かる。琴葉の体は、自分でも気づかないうちに部屋の中にあり、絵の前に棒立ちになっていた。
――わ、わたし?
琴葉は言葉を失い、両手で顔を覆った。とめどなく流れる涙は止めることができず、細い指の隙間からも溢れ落ちてくる。

満面の笑顔、そしてショートヘアの自分は、目線を画家に向けておらず、横に停車されている青いポルシェに向けていた。遠くに描かれてある建物は美術館ではなく、病院。自分が笑顔なのは「元気になれよ」という当時の彼の想い、メッセージに思えた。

『コトハノクルマ』

「なお先生…なお先生!」
甲高い声で叫ぶ。腰を抜かしたように床にしゃがみ込んだら、絵画の前にある椅子に手紙があるのが見え、琴葉はそれを慌てて手にした。
『俺からの条件を提示する。友達でいるために旦那さんとは離婚しない。あと、背中を流す時に女になるな。それだけだ』
琴葉はさかんに、首を左右に振った。涙が飛び散る。
「やだ。なお先生の女になりたい」
時間はあっという間に過ぎてしまい、帰りの列車に乗るためにセットしてあったスマホのアラームが鳴った。
――毎回、こんなに短かったんだ。愛している人との時間が。
画家もその画家たちに惚れた女たちも嫌いだった。だけど、これなんだ。彼女たちが画家を愛したのは。作品に、会えない時間や愛の証が凝縮されるんだ。
琴葉は、自分の肖像画にそっと触れ、ポルシェをずっと見つめていた。列車はとうに発車してしまい、だけど、体が動かない。
動くことができなかった。

国道を走っているベンツの助手席に、飯野唯が座っていた。今風の小顔美人。目が琴葉とは違い、きりっとつり上がっているが頬にえくぼが残っていて、口紅も薄い色。微笑みを絶やさない女に見える。
「なるほどね。あなたが言っていた昔、救った女と偶然に会って友達になったら、マンションにやってくるようになった。体の関係はないけど、最近、彼女の肖像画を描いてたから、わたしを遠ざけていたってこと?」
「そうだ。目の前に知らない女の肖像画があったら気分が悪いだろ」
「わたしの下着も捨てた」
「捨てられた。使用済みパンツは汚いと思った家事手伝いなんでね。ずっと友達以上恋人未満でいる。安心しろ」
「どーかなー。わたしのパンツを必死に捨てた女が恋人未満でいるとは思えない」
「俺の下着はじっと見てるけどね」
「かわいい家政婦ね」
「おまえよりも年上だ」
「町村琴葉」
時任が驚いて、唯を見た。
「前を見て運転」
「あ、はい。え?なんで知ってるの?」
「興信所の女性もきたけどね。その人はわたしとあなたの関係を訊いた。なんかあるなあって構えていたら、数日後に、琴葉さんがわたしのマンションにきた。あなたの通い妻みたいな家政婦なら、部屋にあるわたしの名刺くらいは見つけるようね。変わった女。煙草がどうたらわけの分からないことを言いながら、ずっとあなたの家政婦とかアシスタントとかメンズエステとかでいさせてください。決してエッチなことはしません、って土下座するの」
「メンズエステとか言ってる時点で、もう体に触ってるのがばれてる」
「そう。しかもわたしの下着って分かってて捨てるなんて、あなたが好きで好きでたまらないのね。なのに、とどめをさしてきた。悪い男」
「妙な探偵たちが、先にばらしそうでさ。こういうのは赤の他人に言わせたくない。それと生殺しの罰だ。俺のお尻に触りながら、たたせるなって、ふざけるなって思った。この前はスクール水着みたいな水着にひらひらスカートがついたコスプレもどきのかっこうでしゃがんで俺の体を洗ってるんだぜ。なんのプレイか分からないけど、年齢とのギャップを狙ったなら若く見えるだけに確信犯だろ」
本当に怒っている時任を見た唯は、
「そのムラムラの処理をわたしがしてるんだ。まあ、あなたがなんかに興奮して、わたしとのセックスが良くなるなら合理的でいいよ。ところでピラミッドの頂点って話、知ってる?」
と言った。
時任が何も答えないと、
「または頂上。今回の騒ぎ、どうもピラミッドの頂上にいたのはあなたね。頂上には一人しか立てない。その下にいたのが琴葉。ピラミッドの形状から下には数人立てるけど、琴葉だけかと思ったら、すぐ下は琴葉とわたしじゃないの? その下が興信所の人たちかな。一番下が、琴葉の旦那さんと琴葉に騙されている町の人たちや婦人科の医師とかかな」
「良い人はそんな底辺にいっぱいいるものだ。その人たちを軽蔑していない。国家が誕生してからずっとその構図は崩れていなくて、国家を支えているのは政治家ではなくてその人たちだ。だがな、唯。次の俺の言葉におまえは、うっとりするぞ」
「へえ、させてみて」
「頂上にいたのは、レイプ犯だ」
「……」
「いつの時代も頂点に立つのは悪。俺のような中途半端な男はその下が精いっぱいだ。琴葉の運命を変え、こうして俺たち全員を悩ませたのは頂点に君臨する凶悪だ。俺じゃない。その悪にやられた人を笑顔にするために、良い作品を描き、会いにいくために良い車に乗る。どうだ」
「うっとりした。すぐに抱いて」
「琴葉が気になるから、明日でいいか」
「うっとりさせて、それ?」
「マンションに琴葉がいてもセックスはないよ」
「わたしはいいよ。パパにも女がいっぱいいた。芸術家が平凡じゃ困るから」
「男にとって都合のいい話だ」
信号で停まり、唯にキスをすると、
「凶悪じゃないけど悪い男。なんてかわいそうな、わたしたち女」
と言った。かわいそうとは思ってないようで、妖しく微笑している。
「でも自殺でもしていたらどうするの。正体をばらして突き放すなんて」
声色を変えて言う。
「大丈夫だ。ずっと見守っている」
スマホの画面に、寝室の琴葉の姿が映っている。
「うわ、盗撮」
「違うよ。アトリエの作品を盗まれないために警備会社に設置させてもらっている監視カメラだ」
「琴葉さんが、玄関で鍵をさしたら作動しないはずよ。そうじゃないと、鍵を持ってるわたしが部屋に行っても警備会社の人たちに見られるんじゃ? 着替えとかさ」
「玄関のボックスに鍵をさしたら、すべての防犯装置は停止するが、絵画のある部屋はこうしてアプリから別に操作できるようにした。電話したら、警報器が鳴り響いて10分で警備員が部屋に突入する。月額五万五千円」
「泣いてるよ」
「入るなって言ってあるのに、俺がいないと入る。たった三十分の付き合いでも、全部喋るから、なんでも分かる。入ると思った」
「そうか。意思疎通してるのね。離れないほうがいいよ。男でも女でもそういう人とは」
「娘を置いて自殺する女じゃないんだ。だけど、離婚する可能性はある。どうする?」
「離婚した時に考える。ま、年上のおばさんだから、そんなに気にならないのが本音よ」
「わりとかわいいぞ」
「分かってるけど、すぐに老けるよ」
まだ三十二歳の唯はそう言うと、
「ん? シミがある。わたしもだ」
とルームミラーを見ながら笑った。時任は、帰る様子がない琴葉をスマホの画面で見ながら、
「帰らないのか。まずいな、ちょっと泣きすぎてる」
と言い、車を強引にUターンさせた。
「え? わたしは路上にポイ?」
「箱根の高級旅館の部屋を用意してある。さっき、おまえは突き放したとか言ったけど、琴葉が納得するまでは、部屋には入れる。今日はお灸を据えたけど、あの魔性はかわいい。おまえがそれにムカついたら、勝手に帰ってもいいが、旅館の部屋には伊豆から取り寄せた海鮮と松茸の土瓶蒸しディナーが付いてる。俺がもし行かなかったら、土瓶蒸しは二人分、食べられる。そしてヘルシー」
「うわ、最高か最悪か分からない。わたしもパニック」
唯は、時任の膝を叩いてクスクス笑っていた。

【報告書・高野誠一郎興信事務所】

町村康之殿。
貴殿の妻、町村琴葉さんは、箱根にいる友人の女性(先方の意向で守秘義務が発生し、名前は言えません)と美術館や神社、大涌谷などを巡るため、箱根に頻繁に行っており、また生活苦から、ある画家のモデルのバイトもしていました。ヌードではなく、よくある肖像画であります。その著名な画家には婚約者がおり、なんら男女の関係ではありません。バイトでもらったお金では洋服を買っていた様子です。以上が、依頼された件に関する全容の調査報告書であります。高野誠一郎。

普段は自己啓発をやっていますが、小説、写真が死ぬほど好きです。サポートしていただいたら、どんどん撮影でき、書けます。また、イラストなどの絵も好きなので、表紙に使うクリエイターの方も積極的にサポートしていきます。よろしくお願いします。