見出し画像

『コトハの肖像2 渇き』後編


ーーあなたがあの事件に巻き込まれた日からずっとあなたを愛していた時任先生から離れてはいけません

『コトハの肖像』完結編。

十一年前。
時任尚は父親のように慕っていた、当時、外務大臣だった竹ノ内俊郎とランチの食事をしていた。新緑の季節の日曜日だった。
場所は葉山の近くの隠れ家のようなカフェ&フレンチレストランで、トキトウナオの絵画に惹かれ、将来性をも見出していた竹ノ内は娘の佳奈と時任を結婚させたくて会わせた後、婚約が決まり、結婚は目前だった。
「僕のような売れない画家が大臣の娘さんと結婚していいんですか」
すでに体の関係もあり、それを知っている竹ノ内は笑いながら、
「いまさら何を言ってるのか。私は親ばかではない。娘は少々、男性経験が多いだらしないところがあって、逆に、君のような天才肌の若者には恥ずかしい娘だ。よろしくお願いします」
「え? 大臣、頭を下げないでくださいよ。心臓が止まるかと思った」
時任が頓狂な声を上げると、竹ノ内は大きく笑った。
「売れないと言ったが、セカンダリーで七百万円で売れた絵もある」
フレンチの料理を食べながら、ワインに口をつけた。時任はオレンジジュースだった。車で帰りたいからで、大臣はそれには不満顔だった。時任は、
「昼間から飲めませんよ。今度、夜に」
と言った。
「あの絵は本人が買っただけで、他はそれなりです」
「美しい絵だ。君の絵はとにかく清廉で明るい。日本はこれからどんどん暗い時代に突入していく。君の絵が喜ばれる時代になる」
「ありがとうございます」
「君のあの絵の美しさはどこから来ているのかね。ドイツ表現主義は嫌いかね」
「主義、活動は嫌いです。絵には罪はないですが、ただ、シンプルに人々を楽しませる方が好きです」
竹ノ内は大きく頷き、「私もそうだ。芸術、エンターテイメントをもっと広めていきたい。この国はそれが遅れている」と言って、ワインを旨そうに飲んだ。まさに意気投合した、年配の男と青年である。
親ばかではないと言いながらも、「娘はあれでも料理は上手で、きっと君の世話もよくしてくれるぞ」と自慢げに言っていた。
「知っています。ですが、料理を出す時に必ず、お父さんが好きなものって前置きが付くんですよ。僕の好きな料理は月に二回くらいしかないんです」
持ち上げるように言うと、竹ノ内はさらに機嫌をよくした。それは本当の話だったが、
「絵だけではなく、口も上手いな」
と笑われた。その笑顔と夢が大きくなるばかりの食事の時間が絶望と失望、そして『恥』の食事の時間に一変した。
店に入ってきたカップルの女が、竹ノ内大臣の娘だった。
佳奈は男の腕にしがみついたまま入店してきた。すぐに、時任と父親がいるのに気づき、男から離れたが、若い男の方は何も知らないのか、「どうした佳奈、元彼か」と言って顔を曇らせた。
「ごめん。わたし、帰る」
店を出ようとした娘に、竹ノ内が怒鳴った。
「おまえ、その男はなんだ!」
他の客たちが驚いて時任たちを見た。すると、時任が、
「大臣、落ち着いてください。佳奈さん、彼と一緒に違う店に行きなさい。俺が収めておく」
と言った。佳奈は言われるがまま、店を出て行った。
「あの男…見たことがある。別れてなかったのか」
「二股ですね。やるもんだ」
「時任くん…」
「はい」
「す、すまない…いや、申しわけない」
「よくあることです。あまり叱らないようにしてあげてください」
「よくあること? いや、確かにあるが、いや、ない。いや…あってはならん」
「僕が絵ばかり描いているから退屈になっていたんですよ。今日は大臣と食事だし」
そう笑うと、竹ノ内は目を丸めた。
「君は…怒ってないのか」
「怒ってますが、怒ったらどうなるんですか。もういないし」
と笑った。
「君が店から出て行くように言った」
「他のお客様のこともありますし、…はい、後で叱っておきます」
「時任くん…いや、時任先生、志の高い君にあの娘は……結婚はなかったことに…」
「……」
竹ノ内の目から涙が零れ落ちた。時任がすぐにハンカチを差し出す。
「あれでもいいとは言わんな。もちろん、それが当たり前だ」
「僕の画家としてのピークが今からなら、大人しくしてくれている女性じゃないと作品創りに支障をきたします。結婚は難しいと思います」
時任の言葉に、竹ノ内は何度も頷いた。
「その通りだ。……君が息子で、佳奈がどこかの女だったら百点満点の回答だと褒め、結婚はやめさせるだろう」
「すみません…」
時任尚の瞳が少し湿っているのを見た竹ノ内は、彼が我慢していることが分かり、
「君を息子にしたかった」
と言うと、言葉を漏らしたせいか、また大粒の涙が出てきてしまう。夢が壊れたのだ。念願だった夢が…。竹ノ内はそのまま恥も外聞もなく泣いた。
目の前にいるのは天才と言われている、若く、しかも優しい青年。仮にも大物政治家で真面目な竹ノ内が、娘の不埒を赦すはずがなく、時任の、「結婚はできない」に反論はしなかった。
竹ノ内は料理を残したままタクシーで帰り、時任は愛車のポルシェに乗って、葉山をずっと走り回っていた。
――俺は良い作品を創りたい。タニマチが欲しいわけじゃないんだ。だけど…佳奈には悪いことをした。遊んであげる時間が足りなかったんだ。
そう、反省し、
「あいつ、大臣に目いっぱい叱られてるかもしれないな。ちょっとマンションに行ってみるか。さっきの男も帰ってるだろうし」
と思い、車の方角を佳奈のマンションに向け、少しばかり走っていたら、住宅街の道の真ん中をフラフラ歩いている女を前方に発見した。
「なんだ? 危ないな」
そう呟くが、よく見ると、足に血が付いていて、スカートが汚れているのが見えた。彼女の後ろに車を停め、車から降りた時任は「どうかしましたか」と声をかけた。振り向いた女は若い美女だった。ショートヘアで、若く見えるのかもしれなかったが、二十代だと思った。トップスの胸元は破れていて、口角から血が出ていた。ミニスカートから見える膝が真っ赤に腫れていてやはり出血している。精液が膝に流れて落ちてきているのも分かった。
――こんな昼間に集団暴行か。やられたばかりだ。まだ近くにいるのか
「君、僕の車に乗りなさい。病院に行くぞ」
「は、はい…」
返事はしたが体が震えてきて動けなくなっていた。
「僕は君を病院に連れて行く。安心しなさい」
そう言って優しく肩を押すと、ようやく琴葉はポルシェにもたれかかるようにして体を預けた。ドアを開け、そっと押し込む。
――まずい。佳奈のマンションの近くだ。あいつもいるかもしれない
「こ、この車、悪いことできませんよね」
女…琴葉がそう言った。
「スピード違反ならできるぞ。あっという間に病院だ」
そんなジョークを数回投じたら、琴葉は少しだけ安心した表情を見せた。
「シートベルトを付ける。体には触らない」
と言い、琴葉にシートベルトを付けると、アクセルを全開にして車を走らせた。そして竹ノ内に電話をした。
「大臣、緊急事態です」
「先ほどはすまなかった。また、娘が何かしたのか」
「佳奈さんのマンションの近くで女性が狙われた事件が起きています。今、その女性を助けたところで、大臣の奥様が通院していた新内総合病院の婦人科に、大至急、担当医師を呼んでください」
「え?レイプか」
「はい。女性は若くてかわいい人です。佳奈に出歩かないように、誰かマンションに行かせてください」
「わかった」
「お父さん、すみません。僕が佳奈さんの所に行くべきですが、助手席に座っている女性は…」
時任は琴葉をちらりと見て、
「一刻も早く病院で治療しないといけません」
と言った。
琴葉を無事、病院に運んだ時任は、鎮静剤で眠っている琴葉を見ていた。
――鞄がなかった。身分証やらも財布も取られたのか。家族が来るまで一緒にいてあげよう
琴葉は顔に包帯が巻かれていた。
――髪の毛も乱れていて顔は汚されていたけど、すごくかわいい女性だった。葉山で住んでいるなら町では有名かもしれないな。
目を瞑り、顔の半分を包帯や絆創膏で隠されている彼女が、どんな顔なのか、時任にはよく分からない。運転中は事故を起こさないように、前しか見ていなかった。
竹ノ内から電話が入った。
「女性はどうなった?」
「お陰様で、今は薬で眠っています」
「警察には言っていないな」
「?」
「赤羽刑事には頼んでおいた。君が疑われないように」
「僕が?」
「私の娘と破談。直後にレイプ事件の現場にいた。犯人がいなければ事情聴取をされる。その女性がしっかりしていればいいのだが、錯乱していたら困る。関わらない方がいい」
「わかりました」
「ありがとう。君は愛や正義を貫いたのに次から次へと…。息子のような男にこんなに迷惑をかけ、恥を見せたのは生まれて初めてだ。最後に…」
竹ノ内は一度、言葉を飲み込んだ。
「君をなおと呼ばせてくれないか」
嗚咽が聞こえてきた。彼は今日、何度泣いたのだろうか、と時任は思った。
「僕はずっと、なお、でいいです。お父さん」
「…お父さんか…こんな間抜けで卑怯な男を…なお…。ありがとう。なお…」
電話が切れて、部屋が静まり返ると、琴葉が少しだけ目を開けた。
「ここは病院だ。僕は君を助けた青いポルシェの男だ。分かるかな」
笑顔を見せて言うと、琴葉は少しだけ頷いた。唇が、「ありがとうございました」と動いた。
「警察は犯人を逮捕したいから、君をいじめる。犯人は僕が必ず捕まえるから、ここはいったん、僕とのセックスに失敗して、階段から落ちたことにしておきなさい。しばらくして落ち着いたら、どうするか、君が決めるんだ」
「は、はい」
「なま…いや…」
名前を聞こうとして時任は躊躇った。彼女に自分の名前を訊き返されたら答えていいのかどうか、判断に迷った。
琴葉が落ち着いているのを見た時任は病室から出て行った。廊下に婦人科の斉藤医師がいた。
「警察には言わないでほしいと、竹ノ内先生が言っていたが、君がやったのか」
と言う。
「画家の時任尚だ。絵には興味がないか」
急に時任の顔色が変わり、斉藤医師は目を剥いた。
「あ、ああ、大臣の娘さんの…」
「俺は機嫌が悪い。妙なことを言うなよ。あの女は知らない女だ。俺が助けた。犯人は現場にいなかった。警察は第一発見者を尋問する。DNA鑑定をすれば俺じゃないことはすぐに分かるが、いちいちめんどくさい。大臣の娘の婚約者が疑われたらまずいんだ。分かるか」
「わ、わかった」
どこか殺気があり、斉藤医師は汗ばんでいる。
「あんたも大臣の家族と親交がある。俺が疑われて妙な事件になったら、あんたがしっかりやらなかったと大臣は怒り出すぞ」
「善処する」
「中出し三発は食らってる。精子を採取してあるか。それから、メンタル面のアフターケアも頼みたい」
敬語もない。語気が強まる度に接近してきた時任に反論したら首を絞められるのかと思ったのか、斉藤医師は後ずさりするように時任から離れて行く。
「も、もちろん…」
「彼女にさっき、俺とのセックスで失敗したことにするようにも言った。いったん、口裏を合わせるって相談だ」
「分かった」
「永久にじゃない。彼女が犯人に復讐したいと言ったら…」
時任が言葉を止めて、廊下を歩きだした。
「…俺が犯人をぶち殺す」
休日の病院の廊下は空洞のように薄暗く、誰もいなかった。
ポルシェに乗り込んだら、佳奈から電話が入った。
「ご、ごめんなさい。わたし、あなたが嫌いじゃないし、別れたいとか思ってなくて、ただ、寂しくて…」
「セックスは楽しかったか」
「え? ううん、さっきの人とはそんな…元彼で…」
「楽しかったか」
「なんでそんなことを言わないとだめなの?」
「聞く権利があるはずだ。満面の笑顔で店に入ってきたぞ」
「…ごめんなさい。楽しい。楽しかった。二日前よ」
「セックスが最悪になった女とさっきまで一緒だった。今は病院の駐車場だ」
――傍にいてあげたかった
「お父さんから聞いた。わたしあの後、すぐに彼と別れてマンションに戻った。マンションから出てないよ」
「そうしなさい。お父さんは今回の件で怒ると思うが、嫌いになるなよ」
「はい。怖いからきてくれる? もう浮気しない。やり直したい。抱いてほしい」
「二日前、楽しんだばかりだろ。俺はいいよ」
「もう別れたし…」
「二日前じゃないだろ。それなりのレストランだ。口紅くらい直してから入れ」
「……」
「おまえの肖像画を描いたことがあるから分かるんだ。考えて浮気しろ。あのレストランなら、お父さんがいるかもしれないことくらい分かるだろ。俺が仕事に熱中したら、疲れて三日はおまえをまともに抱けない。他の男としたいなら相談に乗ってやる。分かったか!」
怒鳴ってしまった。
「お父さんとどこかに行くって言ってたから…。都内かと…」
「すまん。怒鳴って…。今度、話し合おう。…佳奈。俺も悪いから。ずっとアトリエにこもってて」
「なおさん…」
時任は、琴葉が眠っている病室の窓をちらりと見た。個室の病室は窓は開けられなくなっている。飛び降り自殺を防止するためだ。病室には刃物類もない。だが、
「俺はさっきの女の子が自殺しないように一晩、病院の駐車場で見ている」
と言った。
――せめて、車の中から一晩だけでも…このままよりを戻したがっている女の所に帰ったら…

――レイプされた女を、浮気した女のことで置き去りじゃないか。彼女は傷だらけのまま、まだ一人なのに

「そう…。カギ閉めて寝るね。ありがとう、なおさん」
通話が終わり、時任はポルシェのシートに背中を預けた。肺にある汚れた空気を吐き出すように深呼吸を繰り返した。
――今日はいろんなことが起きたが最悪なのはあの子で、俺や大臣は…た、たいしたことないだろ
自虐的に笑うと、急に吐き気がしてきて、時任はすぐに車から飛び出して胃液を吐いた。
――くそう
涙が出そうになってきた。

なお…

幻聴が聞こえた。
「お父さん…」
天国の父親の声だった。

辛い時によくやった。さすが、なおだ。

「うん」

泣くな。あの子が幻滅するぞ。

病室を見ると、明かりが灯った。琴葉が窓の外を見ている。

「うん。泣いてないよ。まだあの子が心配だし。でも本当はもっと傍にいてあげたいんだ」
とめどなく流れる涙に抵抗しようとすると、父親の声がまた聞こえた。

なお。…よくやった。さすが、なおだ。強いぞ、偉いぞ。

「うん。お父さんの息子だもん」

そうだ。俺の息子だ、なお。

時任尚はその夜、一晩中泣いていた。
朝になり、患者が来院してきたら、時任尚は琴葉に会わずに病院から離れた。その時に、また涙が零れ落ちてきた。
――まるで置き去りだ。助けた意味がない。ごめんね。

診察室に入った飯野唯は、斉藤医師を思慮深く見ていた。
――琴葉に関わった男か
竹ノ内俊郎の妻、綾子の担当医で、竹ノ内とは親交が深いようだが、当時、若かった時任尚に何か言われたのか、飯野唯が、「時任尚の婚約者です」と自己紹介をしたら、眉間に皺を寄せた。
「子宮頸管因子です。精子の方には異常はありません」
「子宮頸管因子?」
「簡単に言うと、男性の精子を拒否する抗体が、あなたの子宮頸管の中にあり、精子が途中で止まってしまう。または死んでしまうという先天性の体質です」
「そ、それは治療はできますよね」
現代医学の進歩は著しい。唯は比較的、軽い口調で訊いた。
「人工受精ですね」
「え?」
血の気が引いてきた。人工受精?
「人工と言うから拒絶反応を起こされるかもしれませんが、精子と卵子の手助けをするだけです」
「なお…時任さんの精子を予め採取したりするんですか」
「そうです。それを洗浄し、活発な精子をあなたの子宮に注入する。もちろん、いろいろと面倒な作業はありますが、そんなに子供が欲しいのなら、一番安全な不妊治療ですよ」
「必ず妊娠しますか」
唯の問いかけに、斉藤はカルテを見た。
「三十代ですと、必ずということはないです。20%以下です」
「20%? たったの?」
「五回ほどやっても妊娠しない場合は、人工受精でも妊娠しないお体ということになります。その場合は体外受精になりますが…」
唯の耳にはもう何も聞こえてなかった。
「絶望」という言葉さえ浮かばない。これからどうしたらいいのか、それも考えられない。頭の中はまさに真っ白で、気が付いたら、タクシーの中にいた。

娘の琴音を学校に送った琴葉は、家事に取り組むために、「よし」と言って玄関先で腕まくりをしてみせた。
「まるで色気がない」
女の声がして思わず振り返った。
「ゆ、唯さん」
大げさに周りを見回す。空まで見ていた。
「ドローンでも確認したの? 一人よ。わたしがいたところで誰が、あなたの浮気を疑うの?」
「声が大きいでしょ」
「消え入るような声で言ったけど」
唯が元気がないのを見た琴葉が、
「あー、なお先生にふられたんだ」
と笑った。
「あんたの方が声が大きいし、このプチ豪邸のリビングかどこかに通す気はないの?」
と唯が言った。
リビングには子供の玩具が散乱していた。琴音が学校で作った玩具や、学校で描いた絵が飾られている。
「かわいいわね」
コーヒーを淹れてもらった唯は、素直にそう言った。
「ありがとう。何か話でもあるの。まあ、あるからここにいるのか」
琴葉は、唯の正面のソファに座った。セミロングのストレートヘアは艶光りしていて、常に美容に専念していることがわかり、「うーん、綺麗な髪。よく見るとズボラなわたしとは格が違うなあ」と琴葉が苦笑いした。
「ありがとう。いい歳してポニーテールみたいな髪型のコトちゃん。夫の町村さんを時々、手でやってあげたり、得意のギャップで誘惑だけして満足させているのもここなのね。あなたに興奮した町村さんは、書斎の部屋で自分の手でやっていたけど、最近はあなたが手伝うようになった。仲直りしているじゃない。そのまま、なおとは別れたら?」
「リアルなことを口にしながらそんなおちか」
琴葉はため息を吐き、
「手でやるとか、楽しくもなんともないし、むしろ嫌なの。ただ、良い条件が町村からバンバン出てくるからやってるだけ。あ、なお先生に頼まれたら、楽しくなくても頑張るよ。これ、言ってる意味、分かる?」
と言った。
「分かる。なおを愛しています。別れませんよ、でしょ」
「そう。立派なお父様がいる唯さんがここで土下座しても、わたしはなお先生とは別れない。もちろん、なお先生が、わたしを嫌いになったら別だけどね」
「嫌いになる?」
「あれ?聞いてないんだ。今、わたし、治療してるの。レイプ犯と向き合う治療だよ。そうしたら、わたし嫌われるかもしれないんだ」
「なんで?」
「それは言えません」
唯はコーヒーを飲み干すと、
「レイプされたのは事実だけど、別のこともあった。最終的にはそれを言わないといけない。そんなところかな」
と言った。
「鋭い女だな」
「レイプされたのが確か二十後半で、まさかそれまで処女だったはずないでしょ。そのルックスで。レイプされる前の男たちとのセックスがレイプに直結してるってこと」
「ますます鋭い」
軽い口調で返したが、琴葉は目を逸らしている。
「どこまで治療しているか知らないけど、もうばれてると思うよ」
「え?」
「コトハノクルマは裸婦でもないし、レイプされた時のあなたの顔でもない。再会してからあなたを見ていたなおが描いた肖像画よ。頭の天辺から足のつま先までね。セックスはしてないから、そのへんは見てないけど…」
と言い、琴葉の下半身に目を向けた。
「やらしい女だな。松茸土瓶蒸しの旅館に行く前に見られた。ま、わたしが裸になったからだけど」
思わずロングスカートの太ももの上に両手を置いた。
「ま、そこは見せただけじゃね。好きな男には抱かれた方がいいよ。セックスって急にできなくなるのはあなたが一番よく知ってるんじゃないの。だけど、あなたを抱いたなおがあなたを急に抱かなくなることはないと思う。ちょっと前に意思疎通しているって話をした。あなたとなおがね。加えて肖像画も描いていたら、どんなセックスの癖があるのか簡単に見抜かれるわ。しかもセックスの話のカウンセリングじゃあ、もうばれてる。だけど、なおから、あなたの悪口は聞いてない」
「まあ、昔に、男性の大きいのが好きとか、なお先生に言っちゃった記憶はあるからね。具体的には言えないけど、レイプされる以前から、わたしはもてた」
「はいはい。もてましたね。今でも」
「もう、仕方ないでしょ。こっちはなんにもしてないのにナンパされるんだから。合コンなんか出たらわたしの奪い合いだよ」
うんざりした顔で言った。
「もてない女が聞いたら刺し殺されるよ。わたしもそれなりだったけどさ。パパが有名じゃなかったら、あんたには負けない。皆、パパを怖がったからね。わたしももてた。このルックスを見なさい」
と言い、琴葉に顔を近づけた
「女が武勇伝を自慢しあうって、なんなの」
「それで? どんな男遊びがレイプになったのよ」
「え?言うの?」
「訊く権利がある。わたしたちはもしかしたら、ずっと一緒かもしれないからね」
「そうかもね。わたしが嫌われなかったら」
「もうばれてるって。嫌われてないでしょ」
「ばれてるのかなあ。…わたし、すっごいマゾでさ。あ、良いことを教えてあげる。マゾっ子ですって笑顔で言ったら唯さんももっともてるようになるよ。かわいらしく、マゾっ子って言うの」
「……」
唯が肩を落とした。どんな時でもふざけるのか、真面目に言っていて自覚していないのか、後者なんだ、と改めて思った。
「大学を出たくらいの頃はずっとピルを飲んでセックスしてたんだけど、SMにはまってピルもやめたのね」
「リアルだなあ」
「でしょ。聞かない方がいいよ」
「聞くよ。喋りたいくせに」
「ふふ、ばれたか。なお先生にはここまでは話してないけど、いろいろ喋っているうちに楽になってきたからね。SMのサドの男たちは挿入が少ないから、その時だけゴムを付ければいいのよ。ピルはお金がかかるし、毎日飲むのもめんどくさいからやめたんだ。わたし、正座してフェラチオしているのを男性に見下ろされるのが好きなのね。セックスも好きだったけど妊娠の危険があるでしょ。フェラだけに夢中になった。男たちも楽しそうだし、妊娠しない。それがエスカレートして外でもするようになったその日に、レイプされたってこと」
「え?じゃあ、レイプじゃなかったの」
「あのね。レイプされたって言ったよね。その頃はピルも飲んでなかったし」
「ちょっと真面目なお嬢様のわたしには分からない」
「なんで急に真面目なお嬢様になるのよ」
「なおに会うまで未経験だったの。なお、激しいから怖かった」
「はあ? 嘘でしょ」
「嘘」
「だんだん、唯さんの正体も分かってきた。わたしと同じ…」
「同じ、なによ」
「面白い女」
「……」
――憎めない女だな。男にもてるのは、魔性だからかもしれないけど、お喋りも楽しいからか。
「だいたい、わかった。そういうのは人気のない公園を使うから、そこでボーイフレンドかセフレみたいな男と遊んだ後、その男が帰ったら、まさに狙い撃ちかな。知らない男にレイプされたってことね」
「当たり」
「あなたをずっと狙っていたと思うよ」
「うん。全部持っていかれたから。パンツも」
琴葉は快活にそう言ったが「これで終わったかな」と呟き、コーヒーカップを手にした。手が震えているのを見た唯は、
「そんなことでなおは、あなたを嫌いにならないよ」
と言い、その手を摩った。
「わたし、なおを癒す気がないって堂々と宣言して婚約して、本当に疲れているなおを優しく愛撫とかしてないから、あなたが背中を流したり、肩を揉んだり、すっごく嬉しかったと思うよ」
「なんで優しくしてあげないの?」
「パパが強い人だったから、弱々しい男性が嫌いで、なおが疲れたとか言ったら、まあ、お茶くらいは淹れてたけど、スキンシップで優しくするのは嫌だった」
「膝枕とかしてあげないの?」
「気持ち悪い」
「へー、そういう女なんだ。意外」
「そんなに疲れるなら、仕事、休んで早く寝ろよって思ってた」
「ひどすぎない? 画家の先生ですよ。あーあ、なお先生は、わたしがいないとだめか。でもなあ、汚い過去がある女は癒せないかも」
「わたしもなおに冷たくしてきた過去があるのよ。でも最近改心して頑張ってる。好きな人が気持ちよさそうにしているのを見てるのって楽しいね。なおもびっくりして、嬉しそう」
「なんだ。オチはノロケだったのか」
琴葉が肩を落とした。
「わたし、なおの子供が見たいんだ」
虚ろな目をして言った。額縁に入った幼稚園の卒業式の琴音の写真を見ている。
「作ればいいじゃん。出来ちゃった婚にしたいんでしょ」
「そうだよ。ずっと、そうでしょ。わたしのことも見てよ。琴葉」
名前を口にされて、唯の様子がおかしいと思った琴葉は、
「もう一杯、飲む?」と言い、素早くコーヒーを作った。
「お摘みもあるよ。えーと、ポテチとチョコと…」
と言いながら、どんどんお菓子を出してきた。
「琴葉はかわいいよ。あなたと、なおの子なら、きっとかわいいし、利口よ。ちょっと反抗期が多いかもしれないけどね」
琴葉は言葉を失った。
庭をちらりと見る。誰もいないのを確認し、少し語気を強めた言葉を作った。
「まさか、本当にふられたの?」
「わたしはなおの、ただのセックスの女でいることに決めた。他の男とも結婚しない。それはあなたと同じで、彼を愛してるから。最初に出会った時から衝撃的に好きになった。わたしとなおを会わせててくれたのは、竹ノ内元外務大臣だった。なおは、わたしのために、あなたを乗せたポルシェを違うポルシェに替えていた」
「……そんなことが?」
「それは後日談よ。わたしも知らなかった。だけど、その後、あなたが偶然、箱根の美術館に現れた。なおもあなたも、コトハノクルマの自分たちとは知らずに恋に落ちた。わたしは、その程度の浮気でヒステリックになる女じゃない。まさに結婚する条件に、家庭にトラブルを持ちこまないなら浮気はOKとしてあった。癒さない女だしね」
「町村がわたしを愛してるのは、そういう条件を出すことで分かってる。だから離婚はやめることにした」
それを聞いた唯が嘲笑するように、
「琴葉、これだけは言っとく、あんたはバカ。町村さんは、ブランド的に葉山で有名な美人妻のあなたを離したくないだけで、愛なんか持ってない。なおと一緒にしないで。なおは、わたしとあなたが調子に乗ると、他の女を捜す。それが愛よ。違うか、本物の男かな」
と言った。
「本物の男?」
「最初に、ブグローの『渇き』の解釈を答えるように言われた。かわいいふりをして水を飲んでるって言ったら、嘘を吐く女は嫌いですってはっきりと言うもんだから、驚いた。飯野ケイの娘が、目の前にぶら下がってるのに媚びたセリフが一切ない。男を知らないふりをしていたらだめだと思って、男を何度も変えられないから、あなたで最後にしたいみたいな言葉を言っちゃった。名店のフレンチを食べながらセックスの話ばかりになった。打算的な女と言ってないのに、そう言われて、しかも図星。わたしは狙っていた。竹ノ内に大事にされている天才イケメン画家を。…そして、ポルシェを新しくしたのはわたしを乗せるため、わたしと新しい思い出を作って、琴葉を忘れるためと彼は正直に言った。琴葉という名前は知らなかったようだから、想い出とかそう言いかえていたけどね」
「わたしを助けたのは想い出ではないと思うけど…」
「うん。なんか、あなたを助けた日に別のトラブルが竹ノ内となおの間にあったみたいなの。なおに、お父さんがいないことは知ってる?」
「なお先生が若い頃に亡くなられてる」
「竹ノ内先生が、なおの父親代わりになった日が、あなたとなおが出会った日なのよ。あなたがレイプされた日」
「え?」
「そして、竹ノ内先生の娘となおの婚約が破談になった後、竹ノ内先生が、息子のようにかわいがっているなおに紹介したのが、わたしだった。たぶん、破談になった原因は、竹ノ内の娘の方にあって、そのトラブルが起きた日に、あなたがレイプ事件に遭った。高野さんに調べってもらった。これが、あなたがレイプされた、人気のない公園ね」
と言い、メモを出した。公園の絵と番地が書かれてある。
「そ、そうよ」
「こっちが、竹ノ内の娘が当時暮らしていたマンション。今は結婚して別の所にいる」
またメモを出す。番地はほとんど同じだった。
「質問していい?」
「はい」
琴葉は少し手が震えていた。
「助けてもらった時、なおは、ずっとあなたの傍にいた?」
「わかんない。わたし、鎮静剤で寝てたの」
「そっか。なおが以前に、涙は枯れてもう出ない。一晩中、車の中で泣いたことがあるって言っててね。お父さんが亡くなった時だと思ってた。でも、その時、なおは車を持ってなかった。だから、もしかすると、あなたを助けた日の夜かなって」
琴葉の顔色が変わったのを見た唯が、
「いたの? あなたの傍に」
「夜中に目が覚めて、窓の外を見たら、病院の駐車場に、ポルシェが停まってた。中に人がいた。暗かったからポルシェには見えなかったけど、一般的な乗用車じゃなかった。うん、あれはポルシェだ」
「やっぱりね。なおは、竹ノ内の娘のマンションに行かずに、たぶん、錯乱していたあなたの傍にいた。潔く、竹ノ内の娘を切って、あなたをひと時、選んだの。その自己犠牲、判断力、優しさに、竹ノ内は打ちのめされた。大臣の娘に媚びなかったってこと。だから大臣は娘に変わって、なおに相応しい女はいないか必死に探して、わたしにたどり着いた。わたしとなおの交際は順調だった。だけど、あなたが偶然現れた。それは、運命。わたしが、なおと出会えたのも、あなたがいたから」
「わたしとなお先生に結婚してほしい…って話ですか」
「うん」
琴葉は窓のカーテンを閉めた。動転しているのか、娘の写真を裏返しにしり、間違えて唯のコーヒーカップを持ってしまったりした。
「子供も作って。あなたならいいの。わたしたちは芸術か恋愛の神様に選ばれた運命の男女よ」
「り、離婚したら、琴音とは会わせないって」
「そっか。それが愛がないって話よ。脅迫でしょ。脅迫されたのに一緒に暮らしてて、脅迫されてからその旦那のオナニーの手伝いを始めたんだ。葉山のファムファタルも落ちぶれたもんね」
「す、すぐには無理…」
「あなたももう四十なんだから先に子供、作って。うーん、妊娠を誤魔化せる体形じゃないか。デブになってくれる?」
「えー?」
琴葉が緊張感のない声を取り戻したら、唯は安心したのか、
「任せる。なおを」
と言い、右手を伸ばした。握手だった。
「握れません。ちょっとなお先生に電話する。なんで唯さんをふるんだ。話をコロコロ変えやがって」
琴葉がスマホを取り出すと、唯は琴葉の手を押さえ、首を左右に振った。
「わたし、妊娠しない体だった。なおはまだ知らない」
と言い、涙を零した。
「ふられてないよ。なおの子供つくれないんだ。わたしの夢…夢だったの」
琴葉は徐に立ち上がり、唯の隣に座った。お互いの肩が触れると、すぐに抱き合って泣いた。
誰もいなかったが、まさに、人目もはばからず二人は泣いていた。

『KTHファンド』のビルの地下にある愛車に乗ろうとした、社長の椎名鹿太郎は、突然背中を蹴られて、車に大きな体をぶつけた。
「ずいぶん、太ったな。琴葉をレイプした時はスリムだったのに」
蹴ったのは時任尚だった。
「と、時任…」
「会社の名前まで琴葉か。琴葉のストーカーさん」
椎名がスマホを取り出そうとしたら、横から男が出来て、それを取り上げた。高野誠一郎だった。手にこん棒を持っていた。
「防犯カメラも作動していない。警備員はお休みだ」
高野がそう言った。
「一発殴らせてもらう」
そう言い終わらないうちに、時任の右の拳が椎名の鼻づらに命中して鼻血が飛んだ。
「画家の命の手だぜ」
と言うと、美奈子が女子トイレから出てきて、丁寧に、時任の手をビニールで拭いた。それを試験管のような瓶に詰める。
「DNAを採取しました。行ってきます」
と言い、車に乗って去っていった。
「当時、どこで琴葉を見つけたのか知らないが、今でも部屋には琴葉の盗撮写真がいっぱい。それは高野さんが確認した。『コトハノクルマ』の情報を知り、美術館にやってきたのが失敗だよ。警察は友人以外は動けないが、俺はこの日のために、当時、琴葉の体に付着していた精子のDNAをちゃんとキープしてあった。たまたま、琴葉を助けたのが、俺だったのが不運。警備員が寝ているのはある大物政治家がお金を渡したからで、正確には見て見ぬふりだ」
「おまえは、琴葉のなんなんだ」
「琴葉を愛している男。五年経ってもまだセックスしていない純愛だ。おまえとは人間の本質が違うんだよ」
そういうと椎名が小馬鹿にするように笑った。
「琴葉は俺の前に跪いて、すぐに口を使った。あれは合意のセックスだ。琴葉は淫乱なマゾ。ネットに、わたしをレイプしてって書き込んでいた。それを実行したんだ。怖がっていなかった。快楽に耽っていたよ。純愛くんにはわからないんだ。騙されているんだよ、琴葉に」
高野が言葉を失っていると、時任が余裕の笑みを浮かべ、
「そんなことは知っている。琴葉なら、週に二回か三回、俺の前に跪いて足の指をずっと舐めている。その間に不倫妻とか言っておけば、下着が使い物にならなくなるような女だ。そんな女が若い頃、男で遊んでないはずない。そうそう、わたしの口を犯してって言ったこともあったな。俺に嫌われたくなくて、そういうのを隠していただけだが、けっこう五年の間に、口を滑らせてることがあって、なんとなく分かっていたよ」
「若い頃の琴葉はかわいかったぞ」
と嘯くと、
「若い頃も見ている。今はもっとかわいい」
と時任が言った。
「当時、おまえが去った後、両膝が血だらけだったから、アスファルトに膝を付けてフェラチオを長い時間やったんだと分かった。おまえ、でかいんだろ。琴葉は男根崇拝なのをずいぶん前にカミングアウトしていた。おまえのをしゃぶっていた時は楽しかったんだろうな。しかし、血が出るまではどうかな」
と言った。
「なら話は終わりだ。あれはレイプじゃない。傷害では訴えないから、琴葉を寄越せ」
「レイプしてほしいと書き込んであったのか」
「そうだ」
「もし、おまえの勘違いだったら?」
「違っても、あれはレイプじゃない」
「体中が傷だらけで口から血が出ていてか。何回殴ったんだ」
「…」
「車から放り出したのは殺人未遂」
椎名の顔色が変わってきた。
「琴葉を連れて行こうとしたら、琴葉は抵抗した。車を発進させたら、ますます抵抗したから助手席のドアを開けて、押し出した。車は動いていたから、琴葉は道に叩きつけられた。誘拐未遂、殺人未遂…他にも何かあるはずだ」
時任がポケットから小さな携帯電話を取り出した。
「当時、琴葉が使っていた携帯だ。復活させた。掲示板の書き込みを保存した画像があった」
椎名に付きつけるようにして見せた。
そこには、『巨根の男性、フェラチオさせて。みんな、かわいいって言うから罵倒してほしい。イライラしてるの。だけど、入れるのはだめ。お口を責めてね。午後一時、葉山梅花公園でいます。トイレでできるよ。先着一名まで、リピーター優先』と書かれてあった。
高野が、「よく琴葉からこんなものを手に入れたな」と感心して言うと、
「唯に協力してもらったし、俺と琴葉は愛し合っている。長い年月、愛を育んだかいがあった」
と言った。
「この日、おまえの前にもう一人、あの公園でやっている。リピーターだ。その男を探し出して、プレイの行為を比べてもいいぞ。琴葉が言っていたが、最初の男は書き込み通りだった。一日一名は、リスク回避。知らない男とのセックスは数が増えるとトラブルが発生する。次の男、つまりおまえは書き込みとは無関係のルール違反の男だ。ただのレイプ魔だ。そして琴葉を誘拐しようとした。その前に車の中でレイプしながら殴る蹴るの暴行もした。琴葉がぐったりしていたら、家で休ませてあげるって車を動かした」
「そっか、だけどな、時任。あれはもう時効だ」
「ここに警察が来ないのもそうだ。おまえ、いちいち、罪を認めずに俺に反論するが…」
時任が言葉をいったん止めて、椎名に近づいた。
「法律なんか関係ないんだよ。必ず地獄に落としてやる」
と、すごんだ。

一週間前。

レモンスカッシュをコップに入れずに、ラッパ飲みをした琴葉は、時任の前に正座をした。
「治療してください」
と愛らしく言う。
「旦那のより俺の方が小さいんだろ」
「そんなこと言った?」
「言った。旦那のは日本一なんだからって。だから抱かない」
「えー? あれは嘘。町村は普通。なお先生のほうが大きいから恥ずかしい」
顔を真っ赤にして言った。
「犯人のはもっと大きかったね」
「うん」
「正座が好きな話を続けようか。正座が得意なのは、フェラチオが好きなんだ」
「うん。男のひとがわたしの顔を上からじっと見てくれるのはあのポーズなの」
「お見通しだよ。足の舐め方が服従のポーズじゃなくて、俺の足を持って、顔を見せながらする」
「さすが、女たらしは鋭い」
「そんな古い言葉、もうないぞ」
「おばさんでごめんね」
「はい。終わり」
抱きしめてあげると、琴葉は、「そろそろ、できそう」と言い、時任の下半身に手を回した。
「レイプした男をフェラチオしたわたしのこと、嫌いになったと思うから、お別れの記念に一回だけ口でやっておくね」
琴葉はそう言って、素早く時任のジーンズを下ろして、男性器を見つめた。
「欲しかったの…」
瞬きすらせずに、時任の男性を見つめている。
「葉山の真面目な美人妻が淫乱だとばれたら、俺に嫌われると思っていたんだね」
優しく優しく言う。
「うん。それに、本当に怖くてできなかったんだ。セックスに夢中だったのはレイプ事件の前だもん。そう、わたし、ファムファタルなの。男性を誘惑して、楽しいの。なお先生みたいなタイプの男性は、わたしに瞬殺で惚れるんだ。だけど、あんまり増やしたら生活できないから、どんどん切っていった。もう、そんなことはしない。怖かったもん」
怖かった、と何度も口にする。
「もっと高い所に立って、『渇き』だよ」
時任がクッションを重ねてその上に立つと、彼を見上げた琴葉は、「さよなら、なお先生。なんか楽になった」と言いながら、初めて時任のペニスを口に含んだ。
涙が止まらず、息が苦しいのか、すぐに口を離してしまう。それを時任は黙って見ていた。
「鼻水が…こんなじゃ、かわいくない。メイクもボロボロ…」
琴葉はフェラチオをやめると、帰る支度を始めた。
「幸せ。なお先生とこんなエッチなことができたなんて。長い間、ありがとうございました。もう、唯さんとの邪魔はしません。唯さんを大事にしてね」
と言い、また正座をした。そして、
「何度も何度も犯された。レイプで妊娠しなかったのは、なお先生のおかげ。ネットの書き込みを見てきた男だったからフェラチオだけで終わると思った。だから誘惑したようなものよ。後で唯さんに聞いてね」
と言った。長い時間、頭を下げていた琴葉は腕時計を見て立ち上がった。
「これからは誰とでもできそうだから、コトハノクルマ、わたしが買う。どこの店で働こうかな。町村も風俗嬢とは離婚してくれる。唯さんに感謝してる。離婚したら娘と会わせないって脅迫だって気づかなかった。わたしはもう町村を愛してません。琴音とひと時、会えなくなっても、いつか取り戻すよ」
力なく喋り続ける琴葉。何もかもあきらめたのか涙は止まっていた。
「琴葉、メールの確認をしてほしい」
時任に言われた琴葉がスマホを見た。母親からだった。
『今日は琴音のことはわたしが見ているから、時任先生と一緒にいなさい』
え?
『毎日ではありません。あなたには琴音がいます。だけど、週に一度は一晩、時任先生の部屋に泊まりなさい。先日、元外務大臣の竹ノ内先生とお会いしました。お母さんは、若い頃、竹ノ内先生の事務所で選挙のためのバイトをしたことがあります。その先生に頭を下げられて、すべて聞きました。時任先生はあなたが事件に会った日から、ずっとあなたを愛していた人です。あなたを病院に一人にして帰った事を後悔しています。あなたを一人にしたのは竹ノ内先生の命令だったのに、時任先生は、自分を責めています。コトハノクルマはわたしも鎌倉の美術館で見ました。あの絵よりも重く、優しい愛はこの世にありません。あなたも恩返しするんですよ。あなたの心の傷を治してくれる男性とずっと一緒にいなさい』
「な、なお先生?」
「風俗に行く必要はない。あの絵を唯が買って焼くこともない。唯…」
窓に向かって彼女の名前を叫ぶと、玄関から唯が入ってきた。
「きゃ、こんなに良い話なのにコトちゃんは真っ青。なんか琴葉らしい面白いこと言ってリラックスしなさい」
「あ、え、えっと…まさかお母さんまで取り込んでるとは…さすが、緑の中を駆け抜けてく真っ青なポルシェ。今のわたしの顔」
「合格。歌が古すぎるけどね」
唯は琴葉の手を取って、
「シャワー、一緒に浴びよう」と言った。
「唯さん…」
「今夜は三人で手を繋いで寝てよう…きっと…」
唯は涙を滲ませて、
「芸術と恋愛の神様がいつかわたしたちを妊娠させてくれて。その子をわたしが育てるから。わたしたちの子として」
と言った。



普段は自己啓発をやっていますが、小説、写真が死ぬほど好きです。サポートしていただいたら、どんどん撮影でき、書けます。また、イラストなどの絵も好きなので、表紙に使うクリエイターの方も積極的にサポートしていきます。よろしくお願いします。