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【みこ宇宙論】哲学書コーナーの「哲学書」はほとんどトンデモ本

日本人教養エセ自称哲学愛好家が好きな「コギト・エルゴ・スム」デカルトはそんな言葉は一言も、言ってませんでした(゚0゚)という話から


 デカルトというのは、かなり日本では誤解されている哲学者です。これは、日本人が哲学を「教養」と考えているからでしょう。

 哲学は教養なんかじゃありません。教養として哲学を身につけるなんていうのは、哲学的態度から最も正反対の笑っちゃう態度です。そんなもので哲学が分かるわけないです。

 そういう人は例えば、『転校生とブラックジャック』ではこんなふうに笑われます。

 学生Aってのが出てきまして(『転校生とブラックジャック』は、先生と学生たちのゼミの風景の描写なんで哲学科の学生でしょう)その学生Aがこんな事を言います。

 デカルトって、「コギト・エルゴ・スム、我思う故に我あり」って言ってますけど……。

 うんうん、こういうこと言う人いますよね、いっぱい。
┐(´д`)┌ヤレヤレ

 ここで先生がピシャリ!

「それはまたひどい本(教養本:みこちゃん註釈)を読んだもんだね。そもそもデカルトはラテン語で「コギト・エルゴ・スム」なんて言ってないよ。その文が出てくるのは『方法序説』で、「方法序説」はフランス語で書かれているんだよ。だからデカルトは、もちろん「コギト・エルゴ・スム」なんてラテン語で書いたのではなく、「ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スィ」って書いたんだよ。そのうえラテン語で書いた『省察』の方ではわざわざ「エゴ」つきでちゃんと「エゴ・スム」って言明しているからね。その本の言っていることはデタラメだな」

『転校生とブラックジャック』第1章 人称の秘密

 あははは( ̄▽ ̄)。いや、すごすぎて笑えない……( U_U)。

 岩波文庫で日本語訳もあるのに、デカルトの著作を読まずにデカルトは「ゴギト・エルゴ・スム」と言った人、と教養本で読んだ人は、その類のデタラメ本が多分、本棚に何冊もおいてあるかもしれません。それ、哲学書じゃありません。トンデモ本です。

 とりあえず、そういう教養本は全部捨てましょう。あなたの本棚から哲学書(その教養本が自らを哲学書だぞ!と自称、僭称している本)が一冊も無くなるかもしれませんが、哲学の勉強はそこから始まります。

じゃあ、デカルトはなんと言っているのか

 みこちゃんの見る所、デカルトが面白いことを言っている部分は、我思う故に我ありではありません。そして、この言葉はラテン語ではなく、フランス語では確かに書かれているのですが、日本人のほぼ全員が思っている、近代的自我の確立とは何の関係もありません。

 デカルトは、そういう人じゃありません。

 デカルトは、この世の中は全部夢かもしれない、いやまてよ、夢だと考えている自分だけは疑えないかもしれない(ここまでは、確かに言ってます)、でも、話はそこで終わってないのです。

 いや、この疑い得ない自分という自分の確信もまた夢かもしれない。きっと悪霊が夢が連続している世界を作ったに違いない。私はいまそういう場所にいるんだ。(どうしよう、ぼくこわいよぅ、あたまへんになりそうだよぅ)

 これが、デカルトが死ぬまで持ち続けた逃れられなかった実感です。そして、これがデカルトが本当に言いたかった「魂」論につながるのです。デカルトって、悪霊とか魂とか霊魂とかを死ぬまで真剣に問題にした人なので、そういうものをあえて都合よく退けてデカルトが近代的理性を確立した人です!ってのは実はトンデモ説なのでした。

哲学書コーナーの哲学本はこういう本です

 日本に輸入されているデカルトは、この途中の部分までで話をなかったコトにして、哲学史の流れを短く記述する時に(倫理の教科書とかね)都合のいいところだけ抜粋(というか恣意的な抜粋なので捏造に近い)したものだったのでした。

デカルトはむしろ、量子力学エベレット解釈の真の創始者である

 さっきの学生A君は思いっきり恥をかいてしまいましたが、今度は学生Eくんが登場して、すごく良いことを言っています。きっと、教養本には手を出さない人なのでしょう。

 デカルトは、神が世界を瞬間ごとに新しく作り出しているという連続的創造説という説を唱えたそうだ。神が、まったく異なる、関連性のない世界を、次々と作っては壊し作っては壊ししているとしたら、どうだろう。それは不可能な想定だろうか。不可能なはずがない。なぜなら、その状況が何を意味しているか、ぼくははっきりと理解できるからである。

前掲書 第4章 なぜ僕は存在するのか

 じゃあ、デカルトは霊魂研究者だったのか、というと、確かにそれもメインテーマでした(少なくとも、近代的自我の確立なんていうオマケよりも)。でも、みこちゃんはそれ以上にこの「世界連続創造説」に、現代の量子力学にもつながる彼の真骨頂があったと思っています。ゴギト・エルゴ・スムの本当の言葉、エゴ・スムが出てくる、『省察』に「世界連続創造説」は書いてあります。

私の一生の全時間は無数の時間に分割することができ、しかも各々の部分は残りの部分にいささかも依存しないのである。私がすぐ前に存在したということから、いま私が存在しなくてはならないということは帰結しない。そのためには、 ある原因が私をこの瞬間にもう一度創造するということ、言い換えれば、私を保存するということがなければならないのである。

第3省察より抜粋

 出ました!保存!

 そうです。連続創造説は確かに魅力的なのですが、それは、絶対条件として、連続して次々に生成される世界に「保存」という概念が必要。それがないと、単なる世界も人間存在も無秩序の連続、カオスそのものですよね。

 そこでデカルトはこの状況をなんとかしようと苦肉の策で、その連続した世界を統一した世界だと、とりあえず錯覚にせよ認識できる(と思い込める)のはなぜだろう、と考えました。そうでないと、一瞬一瞬精神分裂病になってしまいますからね。(どうしよう、ぼくこわいよぅ、あたまへんになりそうだよぅ)

 そこで出てきたのが、ほんとうの意味での自我同一性(むしろ自己保存性というべきだな)です。

 自分自身も一瞬一瞬バラバラだけど(ほら、理性が確立された揺るぎない自己なんていうのと正反対でしょ)、でも、その自分が世界が連続していると感じるということは、ひょっとすると、そう思っている自分は、なんらかの「保存」力があって、その力によって、かろうじて連続している、と考えて良いかもしれない。という説です。

 これが、我思う故に我ありの真相です。すごくおっかなびっくりなんですよ。

 この、認識対象によって、逆に自分の連続性が確立する、というのは、じつはカントが持てる力をすべて振り絞って完成させた本『純粋理性批判』の根幹です。『純粋理性批判』を読んだ人は、さっきの『省察』のくだりの、特に論の持って行き方、説得の仕方が、カントそっくりだと分かるはずです。
 だから、カントがデカルトを完全否定した、乗り越えた、とする教養哲学本の部分もトンデモです。ただし、これについては日本では、大学でもそう教えていますので、トンデモ本だけのせいではありませんけどね。むしろデカルトの忠実で正統的な後継者がカントである、というのがまともな哲学史解釈となります。

 世界連続創造説は、これも日本ではあまり議論されていないので、残念なのですが、実は世界的には哲学の王道です。

日本の哲学界がこういうことをもっと議論していれば
物理学者との対話も進んでいるはずなんだが……。

 フランス語なので読めてません。みこちゃんのフランス語力だと仕事全部ほっぽりだしても多分1年以上かかります。ですので読んだ方のブログを引用します。

一般に、連続創造説といえばデカルトだけれど、当然これにも前史がないわけではないだろうとの推測のもと、ファビアン・ルヴォル『西欧思想史における連続創造説の概念』(Fabien Revol, Le concept de creation continuée dans l’histoire de la pensée occidentale, Institut Interdisciplinaire d’Etudes Epistémologiques, 2017)を読み始めた。同書は三つの時代区分で連続創造説を取り上げるという趣向(スコラ学の時代、デカルトの時代、近代)で、各時代の連続創造説にはそれぞれ「創造の温存」「創造行為の作用の維持」「恒常的再創造」という概念が相当するとされる。さしあたり個人的に注目するのはこの最初の部分。創造の温存という意味での連続創造説だ。

連続創造説の起源
太字はみこちゃん

「創造の温存」「創造行為の作用の維持」「恒常的再創造」どれも、量子力学の本に登場しそうな概念ですね。

 仏教の刹那滅や晩年のライプニッツの影響の濃い時期の西田幾多郎でも似たような言葉が出てきます。やっぱり、日本人唯一の哲学者は西田幾多郎なのかな……。

 さて、長くなりましたので、また、大変楽しい本『転校生とブラックジャック』を読み進めてみます。


その本は哲学本じゃなくてトンデモ本だよ

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