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子どもの貧困率が改善した実感がない

この十年で劇的に改善した子どもの貧困率

三年ごとに国(厚生労働省)から発表されてきた子どもの貧困率が、発表されました。以下、その件について報道している朝日新聞の記事を転載します。

所得水準などに照らして貧困の状態にある18歳未満の割合を示す子どもの相対的貧困率は、2021年に11・5%となり、3年前(14・0%)に比べて2・5ポイント改善した。ただ、ひとり親世帯でみると44・5%にのぼり、半数近くが困窮にあえぐ状況が続く。厚生労働省が4日公表した国民生活基礎調査でわかった。
(朝日新聞 2023年7月4日)

今年は子どもの貧困対策推進法が施行されて10年。当時子どもの貧困率は16,3%であったことから「日本の子どもたち7人に1人が貧困」というキーワードと共に子どもの貧困支援ブームが起こりました。国や市町村が子どもの貧困の実態調査や貧困対策計画を策定して、10年前では考えにくかった給食費や医療の無償化が全国に広がっています。民間でも無料学習支援、子ども食堂など子どもの貧困に心を痛める市民が立ち上がって様々な活動が急増しました。

自分自身も子ども若者に関わる福祉実践の中で、地域に貧困などの家庭がしんどい子どもたちの居場所をまちの力を借り、行政からは必要な子どもや家庭とつながるサポートをしてもらい、居場所で見つけた困りごとを専門的な支援で解決を目指す「まちの子どもソーシャルワーク」というキーワードにたどり着き、現在はNPO法人こどもソーシャルワークセンター理事長として、子ども若者の居場所活動をはじめ、貧困に苦しむ家庭の子どもたちと日々関わりながら、様々な社会資源づくりやネットワーク活動やソーシャルアクションに関わってきました。

今回、子どもの貧困率が改善と言われても、日々子どもと関わる中では全くその実感を感じていません。子どもの貧困率という数字が改善した分析は、数字をあつかうプロに分析してもらうとして、現場にいる自分は、なぜここまで子どもたちやその家族が貧困に苦しむ実態が、変わっていない(それどころか悪化している)のかを分析して社会に問う必要があると強く感じています。

子どもの貧困=子どもの人権侵害であるという視点の欠如

子どもの貧困がキーワードとして社会化したことで、分野を超えてこの問題解決のために人や団体が集まりましたが、様々な視点での発信を耳にするたびに子どもの貧困という課題と向き合っている自分の感覚とは違う感覚にモヤモヤを抱えることがよくあります。

2016年に出版された『徹底調査 子供の貧困が日本を滅ぼす 社会的損失40兆円の衝撃』に代表されるように、子どもの貧困の放置は将来の社会の経済的な損失という視点。説得力はありますし、何も否定する気はないのですが、子どもへの価値基準が大人になってしっかり納税して社会に役立ちましょうというメッセージの暴力性に胸が痛くなります。

「貧困であっても一生懸命に頑張る子どもや家庭は救いたい」「貧困を理由に努力しない子どもや家庭は救う価値がいない」そのような発言やそう言いたいのだろうなと思う子どもの貧困支援を耳にしたり目にするたびに、貧困がそもそも頑張る力を奪うこと、三世代に渡って貧困の連鎖にはまっている家庭を支援する活動は一朝一夕に成果がでないことを知らない、知ろうとしない社会であることを思い知らされます。

2012年ごろから急激に広がった「子ども食堂」ブームについても最近よく考えさせられます。教育支援に偏っていた法設立直後の「子どもの貧困対策に関する大綱」に対して、食や遊びなどの文化体験の必要性を当時強く訴えていたこともあって、自分自身の活動や社会啓発もこの子ども食堂ブームを広げるのに少なからず影響を与えたのだろうと思っています。しかし子ども食堂がブームになればなるほど、大事なのが「子ども食堂」という活動になり、「貧困を抱える子ども」たちではなくなってきたと感じることがよくあります。特に最近は「子ども食堂は貧困の子が集まる食堂ではない」という子ども食堂に関わるネットワークや中間支援団体からのメッセージと国や自治体や企業が子どもの貧困対策として子ども食堂を補助・支援するダブルバインドが起こっていて、厳しい言い方をすれば、子どもの貧困をネットワークや中間支援、政治に関わる大人たちにうまく使われてしまうツールになってしまったように思えてなりません。もちろん、子ども食堂の現場では、そうではなく目の前の子どもたちに向き合う地域住人の善意にあふれているのは知っています。

昨年度の滋賀県の子ども県議会で、小学4年生の子どもが「みんなのいばしょ」という提言をしてくれている中で、とても気になる言葉がありました。
今ある様々な場所を使って夜まで子どもが過ごせる場がほしいという政策提言でした。その最後に気になる一文がありました。

「子ども食堂ではなく、宿題や復習ができたり、分からないところを教えたり教えてもらったり、みんなでおもいきり遊んだりできるところがほしいです。まだまだ 働きたい高れい者の方や町の人に見守りをしてもらって、もっと子どもが安心して、笑顔になれるような場所をつくりたいです。そうしたら子どもみんながもっと 幸せな滋賀県になると思うのですが、いかがでしょうか。


2022年滋賀県子ども県議会10提案(2022.12.26)



子どもから「子ども食堂」ではない居場所がほしいと言われている意味を、滋賀県の大人はもっと真剣に受け止めないといけないと思います。後の文章から推測すると、どうやらこの子が参加したことのある子ども食堂では、宿題や復習やみんなでおもいきり遊ぶことが出来なかったため、このような言葉が出てきたと考えられます。子ども食堂の大人が準備したプログラム(例えば絵本の読み聞かせ、昔遊び)に、子どもたちは学校の授業のように強制的に参加させられて、勉強や遊びを自由に過ごすことが出来なかったのだろうと考えると、いったい何のための子ども食堂なのかと悲しくなります。そして大人が子どもに何かをさせたい子ども食堂は、貧困課題を抱える子どもにとって行きにくい子ども食堂になる可能性が高まることも容易に想像がつきます。

これが子ども食堂の先進県と全国に掲げている滋賀県の一つの現実です。子ども食堂の数がたくさんあることを誇っても、そこに関わる大人たちがたくさんいることがすごいと言われても、結局は参加した子どもたちのキモチが見えてないようでは、いったい誰のための子ども食堂なのだろう。と、この子ども議会の子どもたちの提案を読んで感じましたし、そのことを子ども食堂を推進している県やネットワークの人たちはこの言葉をどう受け止めてこの子にどのようなメッセージを返したのだろうかと聞きたくなります。
その前の年の子ども県議会では「ヤングケアラーの小学生にも直接調査をしてほしい」と提案したヤングケアラーの小学生の声を、結果的に無視して大人だけを対象にした調査をしれっとしたことを考えると、きっとこの子どもの声も子ども食堂に関わるネットワークや行政担当者に伝わってないのだろうと思ってしまいます。

と、このように数字だけで子どもの貧困をみていくことは、結局「一人ひとりの子ども自身」を見ていないことにもつながっています。そして数字だけで子どもの貧困の実態や貧困対策の成果を測ろうとすれば、そこに子どもの貧困によって子どもの人権が奪われているという視点をうっかり忘れかねないことになるのではないでしょうか。子どもの貧困率が改善した実感がないというは、まさにこの点で数字は改善したり、様々な子ども貧困対策の支援メニューが増えたのは間違いない事実ですが、結局そのことが貧困によって侵害されている子どもの人権を保障していることにつながっていないからこそ、現場にいる我々は子どもの貧困の改善を実感出来ない。また子どもの貧困の支援に子どもの人権という視点を置き去りにした言葉や活動が増えていることで、より悪化しているように感じているのではないでしょうか。

子どもの貧困がブームであったり、ツールであったからこそつながっていた人や団体は、そろそろ潮時と感じているのかどんどん離れていっています。その時に「子どもの貧困率の改善」は離れるいい理由になると思います。またここ最近では「ヤングケアラー」など、しんどさを抱える子どもたちを支える次のブームやツールがやってきているためか、そちらの界隈でも子どもの貧困が社会化した10年前に起こったことがほぼそっくりそのまま起こっているなと感じています。どちらにせよしんどさを抱える子ども若者たちが目の前にいる中でソーシャルワークを実践している自分にとっては、何も変わることなくまずは目の前の子ども若者たちと向き合っていこうと思います。

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