短編小説【シオン】

シオン

 一輪の花が咲いていた。
固いアスファルトの間から伸びる、凛とした姿。やわらかな薄紫色の花弁。名前は分からない。ただ、とても美しいと思った。

 その花は通勤途中の歩道脇に咲いていた。
休日は通らないので見ることができない。大雨が降った日曜の夜などは、あのやわらかな花弁が飛んでいってしまってはいないか、茎が折れてしおれてしまってはいないかと、花の事が心配でしょうがなかった。

 月曜の朝。いつもより早く家を出て例の歩道へ向かう。この道の角を曲がって、真っ直ぐ、日当たりの良い道を歩く。あと二十歩。もうすぐだ。横断歩道のボタンが付いた電柱の下、アスファルトの大きなひび割れ。いつもそこに、あの花が。

「花は枯れましたよ」

ひび割れの前で立ち止まっている僕の横で、見知らぬ少女が言った。

「花は枯れましたよ」

僕が口を開かない様子を見、少女がもう一度言う。

「毎日楽しみにしていました。」
「僕もです」

やっと出た一言に、少女は少し目を見開いた後、こう続けた。

「ここはとても日当たりがいいから、育つのもあっという間でしたね。」
「そうですね。見るたびに葉が伸びてすぐに花が咲いて。びっくりしましたよ。」
「ふふふ。蕾の時は早く開いてほしいって思いました。」
「そうそう。やっぱり花弁が開いたところが一番感動したなぁ。陽を浴びて思い切り開ききった時、本当に綺麗だったんですよ。あなたはご覧になりましたか?」
「ええ。世界が輝いて見えました。」
「通勤なんて毎日同じ道を歩いて、また同じ景色を見て帰るだけだったんです。でもあの花が咲いてから少しだけ、ほんの少しだけですよ?通勤が楽しくなったんです。それで・・」

そこまで話して、目の前のアスファルトにその花が無い事を改めて実感してしまい、口を噤んだ。
少女は何も言わない。ただじっと僕の次の言葉が紡がれるのを待っている。

「それで、毎日あの花を見るのが楽しみで・・・。でも土日は休みだから通らないんですよ。この横断歩道。休日にわざわざ見に行く事は一度もなかった。あれだけ気にかけていたのに。」
「・・・もう見られなくなってしまいましたね。昨日の大雨で、花は枯れてしまった。」
「雨が降った時は心配でしょうがなかったですよ。今度こそ花が無くなってしまうんじゃないかって。でも僕は外には出なかった。バケツでも持って行って花を守ってやればいいのに。僕はそれをしなかった。」
「昨日の大雨は酷かったですから。とても外には出られなかったでしょう。」
「違うんです。僕は、月曜日になれば見られると思ったんです。雨が上がれば当たり前のようにそこにいて、雨露をはじいて凛と咲いているものだと思っていた。・・・そうあってほしかった。」
「・・・それであなたは外に出なかった。」
「無くなってから気付きました。当たり前にそこにいる、なんて事はないって。あの花も雨に打たれれば枯れる。踏まれれば茎は折れるし、花弁はいつか散る。何故ここに花がある時に気付かなかったのでしょう。大切にしてやる事が出来なかったのでしょう。」
「ひどく傷ついていますね。」
「そうですね。こんな気持ちになるくらいなら、出会わない方がよかったのかもしれません。」

そう言うと、少女はどこか悲しげな表情になった。
「私は、出会えてよかったと思いますよ。何もなかったこの道で、ささやかな、幸せな時間を送る事ができました。」
彼女の表情は悲しさから一転、とても優しい笑みを浮かべていた。
「・・・花は幸せだったんでしょうか。それすら聞けないんですよね。もう花は無いから。」
あの花に出会う事がなければ、平凡な道をただ歩くだけだったし、こんなに切ない気持ちにもならなかった。
苦しいのは、それだけ思い出が鮮やかで、あたたかで、大切だからだ。
自分はこんなにも様々な感情を貰ったのに、花には何もしてやれなかった。
「幸せでしたよ。とても。」
「・・・ええ。そうだったら、いいですね。」
「ええ。」

彼女がそう言って微笑んだ時、二人の間にワッと、風が吹いた。
少女の着ているワンピースがひらりと舞う。
花弁のようだ。と思った。

「これ。」

ふと少女が握った手を差し出してきた。

「これは?」
「種です。あなたにお渡しします。」
「種、ですか?一体何の?」
「ふふふ、それは秘密です。」

少女が一歩僕の方へ近づく。その時初めて少女の顔がはっきりと見えた。
きめ細やかな白い肌で、とても凛とした、美しい顔立ちだった。

「それでは、また。」

そう言って少女は手を開き僕の手に種をポロポロと落とすと、横断歩道を駆け足で渡り、眩しい日差しの中へ消えていった。


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