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【小説】聖域

 私はいつも彼を見ている。きまった時間に、きまった場所で、きまった動きをくり返す彼を。

 私は、彼のことをほとんど知らない。名前も、学年も、クラスも、誕生日も、声も、趣味も、交友関係も、テストの成績も。顔だってよく知らない。廊下ですれちがっても、きっと気づかないと思う。

 ――それでいいの? 満足なの?

 そんなことを訊く声がある。そういうとき、私はきまってこう返す。

「もちろん」

 私が彼のことについて知っているのは、たった三つ。

 右利きであること。野球部であること。ボールを投げているその様子が、この世のなにより私を惹きつけるということ。

 ほかにはなにも知らない。そして、これ以上のことを知りたいとは思わない。

 ――それでいいの? 満足なの?

 私は「もちろん」と答える。機嫌がいいときには、さらにこう続ける。

「ここであれを見ている時間が、いちばん幸せだから」

 いちばん幸せ。私のなかに存在する、掛け値なしの本心。

 放課後。私は、教室から見ている。グラウンドの隅で、彼が緑色のネットにむかってボールを投げこむ姿を。

 さっきまで授業があった教室に、今は誰もいない。西日の差す窓際の、誰かの席に私は座っている。そこだと彼の姿がよく見えるから。今日も彼は、一人でボールを投げこんでいる。

 照明の落ちた誰もいない教室は、あくまでもしずかだ。しずかで、少しだけひんやりとしている。私はブレザーの下に着たカーディガンの袖をたぐり寄せる。彼は足元のかごからボールを一つ手にとる。机の上で頬杖をつきながら私は見ている。彼はボールを投げる。

 かごの中のボールをすべて投げてしまうと、彼はからっぽのかごを持ってボールを拾いにいく。つかの間のインターバルが訪れ、私のまばたきの回数が増える。

 私は小さく下唇を噛みながら、頭を窓ガラスにもたせかける。髪の毛をとおして、ガラスの冷たさが頭皮に伝わってくる感覚が好きだ。そうしながら、目を閉じてみる。今よりずっと前から、私はここにいたような気がする。

 たったひとりで生きている自分を想像してみる。しずかな教室から、私は窓の外のうつり変わる季節を見送っている。昼も夜もなく、何年も何年も、ただ窓の外を眺めているのだ。雨は土を濡らし、風は葉を落とし、太陽は私を透きとおらせる。そしていつの日か、私は変化を変化として捉えられなくなる。そんなさびしくも誇らしい自分を想像して、少しだけ唇を嚙む力を緩める。

 私がその空虚でしめやかなトリップを終える頃、彼はすでに黙々とボールを投げはじめている。

 ――なんであの人?

 ある日、そんなことを問いかけられた。

 それは、私がこれまでにむけられたありとあらゆる問いかけのなかで、もっとも答えを導きだすのが困難な質問だった。私は沈黙をつらぬくことでしか、自分の意思を表明することができなかった。

 私は、彼の腕の振りが好きだ。持ち上げられる左足が好きだ。球を投げたあとに、所在なげにおろされた褐色かちいろのグローブが胸元に引きあげられるその瞬間が好きだ。彼の指先から離れてしまったボールには、興味がない。投げられたボールが速いのか遅いのか。狙ったところに向かったのか否か。そんなことはどうでもよかった。私はただ、彼がボールを投げるその瞬間を見つめていたい。

 このように、答えはちゃんと存在する。それは、なんであの人? という問いかけに対する、明確な回答につながる。つながるはずなのに、私は答えを示すことができなかった。

 彼がグラウンドの隅のその場所でボールを投げるのは、決まって三十分間。投げはじめて三十分が経つと、彼はボールの入ったかごを持ってどこかにいってしまう。彼がいなくなってしまうと、私はこの世界にひとりきりになったような気持ちになる。

 どうして私は、彼がボールを投げるその瞬間が気になるのだろう。考えたことがある。けれど、答えは見つからなかった。私が答えを見つけようとしていないからだ。繰り返される年月の中で季節を失うのとおなじように、私は私の中に芽生えた疑問を時間の経過とともに見失ってしまう。そんなふうにして、真実はどこまでも深く遠ざかっていく。真実を閉じ込めた迷宮からはるか離れたグラウンドでは、彼が粛々とボールを投げつづけている。私は今日も、その光景を見つめている。

 ――あの人の名前、教えてあげようか?

 ある日、そんなことを言われた。

「いい」

 私はそのとき、なぜだか不愉快な気持ちになった。なにかを考えるより早く、反射的にそう答えていた。

 かごを抱えた彼が姿を見せる。グラウンドの隅の、いつもの場所。ほんの少しだけ、私の眉間にしわがよる。続々と投げこまれていくボール。私は彼の右腕を、上げられた足を、ふわりと動くグローブを見ている。

 かごの中のボールがなくなり、彼はボールを拾い集めるために歩きだす。例外なくやってくるインターバル。頬杖を崩し、窓に頭をつけてグラウンドを見下ろしながら、私は彼の名前について考えていた。

 彼にも、名前がある。

 そんな当たり前の事実を思うだけで、私はひどく不安定な気持ちになった。いつものように、おだやかな心でグラウンドの方を見ることができない。いやな予感も覚えた。それ以上は考えてはいけない、と私の中でだれかが警告を発していた。

 私は考えることをやめた。そして、三十分が経過するより早く、窓から目を背けた。そんなことをするのは初めてで、私は今にも泣きだしそうな気分だった。

 次の日、彼はグラウンドに姿を見せなかった。その次の日にも姿を見せなかった。私は待った。いつもの席で、頭を冷たい窓ガラスにもたせかけながら。いつまで待っても、彼はグラウンドに姿を見せなかった。私は誰もいない教室から、誰もいないグラウンドを眺めていた。

 ある日、雨が降った。雨は音もなく降り続け、教室の空気を重くする。私は小さくあくびをもらす。雨は、瞼のふちをも湿らせる。今日も彼はいない。

 窓の外を見つめながら、私はいくつもの季節を見送った。そして、彼が姿を見せるのを待った。じれったさはない。いつまでも待っていられる。そう思った。

 そして、その日は突然やってくる。

 夜の教室に、私はいた。耳鳴も息をひそめるほどの静寂。空にはまばらな星の光がある。紫色の雲がある。老いた月がある。ぽーん、ぽーんと点滅しながら南へむかう飛行機がある。すべてが理想的な配置にちりばめられている。グラウンドは、いくら目をこらしても暗くてなにも見えない。とてもしずかな夜だ、と私は思う。

 私は頭をもたせかけ、窓の外を見つめる。暗いグラウンド。私はそこにだれかの姿を見ようとする。どうして彼はいないのだろう? 名前も知らない、私が見ていた彼。

 ――もう彼が姿を見せることはない。役目を終えたから。そうでしょ?

 声はいつも、私に疑問を投げかけてくる。けれど、夜になってこうして問いかけられたのは、初めてのことだった。

 そうか。ついにそのときがきたんだ。

 私はカーディガンの袖を引っ張る。そして机の上に肘をつき、力なく開かれた両手をぴたりと合わせてみる。それから少しだけ指をずらして、組んでみる。いただきますから、お祈りのポーズ。

 目を閉じる。暗闇をぬりかえる暗闇。なぜだか、より暗いほうが安心できる。

 ひとりですごす夜だ。やっぱり明かりがほしい、と小さく思う。いちばんの願いごとがすぐに思いうかばないのは、いまに始まったことじゃない。しずかに朝を待つのはいやだった。

「さようなら」

 目を閉じたまま、私はぽつりとつぶやいた。声は、夜の教室に煙のようにとけていく。

 もうすぐ、ここにはだれもいなくなる。私は、遠い日のことを思いだす。

 呼ばれる名前があったときのこと。吐く息が窓ガラスをくもらせていたときのこと。心に迷宮を作りだす、そのずっとまえのこと。いくつもの季節の向かい風に目を細めながら、私はそれらを拾いあつめていく。

 次の朝日がのぼるころ、私はここにはいない。私がいなくなっても、変わらずに時はながれ、雨は降り、誰かがボールを投げるだろう。そして、聖域はひっそりと光を失うのだ。

 ――だいじょうぶ。すべて元どおりになるから。

 それは、純粋なささやき。私は今、答えを求められていない。つう、と涙がひとすじこぼれる。悲しくはない。こんなにも穏やかな気持ちで涙は流れることを、私ははじめて知った。

「ほんとうに?」

 ――ほんとうよ。聖域は、なんどでも甦るの。

 なんどでも甦る。その言葉は、私を安心させた。やわらかく、あたたかい毛布に包まれたような穏やかな気持ちになった。

 私は、もう二度と会うことのない彼に、「ありがとう」と言った。ずっと漂流していた私をこの場所にとどめてくれた彼。そして、私を受け入れてくれたこの教室。涙は、音もなく流れつづける。

 さいごにもう一度だけ、私は窓ガラスに頭をつける。一秒ずつ夜明けが近づいてきているのがわかった。私は目を閉じて、あくびをした。そして、眠ってしまうそのときまで、徐々に膨れあがっていく世界の鼓動を聞いていた。

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