見出し画像

トークンと利他の関係。DAOは「ドライな組織」のほうがうまくいくのではないか、と考えてみた

どのコミュニティも頭を悩ませる問題、それはメンバーのリテンション率ではないでしょうか。最初は熱量高くコミュニティに入ってくれたのに、そのうち発言数が減って、ついには現れなくなる…なんてことはしょっちゅうです。それを避けるために、コミュニティは、何かしら貢献してくれたメンバーに対しインセンティブとしてトークンを配るということをしています。

「コミュニティへの貢献(コミュニティにとって良いこと)をしたらトークンがもらえる」、これ素晴らしいことに思えるのですが、少しだけ違和感があるのです。というのも、自分がおこなってきた貢献(コミュニティで困っている人に回答したり、みんなに役立つドキュメントを書いたり)は、純粋に「したいからしていた」わけで、トークンを貰いたいからではないから。

やりたいからやっていたのにトークンをもらうと、役に立つことをしたいという純粋な思いが損なわれてしまう、そんな居心地の悪さを感じてしまいます。だから、自分の利他的側面を保つために、あえて申請せずトークンをもらわない、なんてことをしたこともありました。
(念のため申し上げると、トークンを受け取ることを非難しているわけではありません!)

もしかしたら「人やコミュニティのため」という利他的行為と、トークンを結び付けないほうがいいのではないか?結びつけることで、逆によきことの循環を阻害するのではないか?

今回は、そんな疑問を利他学や贈与経済の観点から考えてみようと思います。

良いことは、意図せず、うっかりやってしまうもの

利他学を研究している伊東亜紗さんは良いこと(利他)は「もれる」ものだと、よく本に書いています。

利他を考えるときに〈与える〉という能動モデルだと相手を支配することになってうまくいかない。むしろ〈漏れる〉のような循環と流通の圧力に任せ、必要とする人が必要なものを取っていくモデルがよいのではないか。

良いことをする、というと自分を犠牲にして善行をする、そんなメッセージ性の強い行いをつい想起してしまいます。でも、本当の利他とは、意図せずやっていたことが、巡り巡って誰かのためになっていたということなのではないか?そう伊藤さんは問いています。

例えば自然界を見てみると、本当に漏れまくっていると思うんですね。太陽の光が木漏れ日として落ちてくるとか、その光で植物が光合成をしたときに、その栄養を一見、実というかたちで蓄えているように見えますけれども、その実が地面に落っこちて、別の昆虫とか動物の食料になったりするわけです。そうやって独り占めしないのが自然のしくみだと思うんです。どんどん漏れさせていく。人間社会でも、漏れ出ていくような利他を考えたい。

見返りを考えず、うっかり、漏れることが利他。おもしろい話です。

これとは反対に、うっかりしてない利他はちょっと恥ずかしい。たとえば電車で席を譲るシーン。なんだか「私、良いことをしてます」とアピールしているみたいで、じゃっかん後ろめたい気分があります。善いとは酔いの可能性、つまりいいことをしている自分に酔ってしまう可能性があるのかも…。利他的なことをしているのか、利己的なことをしているのか、「意志」が入るとどっちかわからなくなります。

受け取ると、与えたくなる

伊藤亜紗さんが「〈漏れる〉のような循環と流通の圧力」と書いていますが、漏れる利他はどのように循環するのでしょうか。

このヒントになりそうなのが、近内悠太さんの「世界は贈与でできている」の本です。ここに、なぜ親は自分の子どもを愛するのか、という話がありました。

著者は、親が子どもを無条件に愛するのは、子どものころに無条件に愛されたからで、自分の子どもを愛することでそのお返しをしているのだ、と書いています。

親から受けた愛はある意味「贈与」であり、この贈与を受けると、返さないといけないという気持ちが心の奥にしまわれる。だから、子どもができたときに自分の親への返礼として、自分の子どもを愛しているのではないか、ということです。

どうでしょう、お子さんがいる親御さんはピンときますか?

自分にも子どもがいますがまったくピンときませんでした。しかしこれは「ピンとこない」からいいのでしょう。つまり、お返しとして意識して愛さないから無償に愛せるのであり、だからこそ循環していくからです。

一般的に「贈与論」では、受け取るということはネガティブな側面が強調されてきたようです。高額な贈り物をされたときに負担に感じるように、一方的に贈り物をされていると支配構造ができます。けれど、太陽や自然のめぐみも一方的贈与と考えると、受け取ることが悪いことだとは思えません。

大地のめぐみを受けとって、はじめて生きることができる。そして受け取ったことで、次に与える存在になる。かならずしも、贈与を与えた側に返さなくてもよく、別の存在にお返ししても、それが世代を超えて存在を超えて循環していくのです。

交換できないから贈与が成り立つ


いっぽう、市場経済では、贈与ではなく交換することで動いています。1本100円の値段がつくペンは、100円の価値。ひとつ200円のパンは、その値段の価値。その等価価値を交換して、商売が成立します。

でも、例えば大好きな人がくれたプレゼントはどうでしょうか。あるいは子どもが一生懸命書いてくれたお手紙とか…。大切な人が思いを込めてくれると、自分にとって特別な宝物となり、もうそのモノの値段で図ることはできません。物質的なモノからあふれる、あるいは、漏れ出てくる「何か」を感じるからだと思います。

贈与なのに、交換を当てはめるとどうなるのでしょうか。

ある本に、インドで荷物を運ぶのを手伝ってくれた男性に「ありがとう」といったらムッとされたという話が紹介されていました。

「ありがとう」と言われてキレたインド人の男性は「ありがとう」と言われることでこれが贈与ではなく交換になってしまう、という問題に触れたのだと思います。つまり、何かやったことに対する返礼としての言葉がかえってくると、その関係性が変わってしまう。

「利他とは何か」より

インドでは、ありがとうという言葉は近代になって借用されてきた言葉であり、インドでは日常に流通してないそうですね。困っている人を助ける行為は自然なこととして根底にあるので、ありがとうは逆に不自然なんだとか。

贈与の気持ちに対して、交換で対応すると妙な気分になる。このインド人での話を読んで、まさにコミュニティでトークンをもらうときの気持ちとシンクロする部分がありました。

DAOと効果的利他主義

では、トークンを介在の単位として使うDAO(分散型自立組織)において、利他の精神は入らないのでしょうか。

そう考えたとき、効果的利他主義という言葉が頭に浮かびました。効果的利他主義とは、英語圏の若者を中心に広がっている「最大多数の最大幸福」を願う新しい考え方です。特徴は、共感よりも理性にもとづいて利他をおこなうという点です。

幸福を徹底的に数値化します。たとえば自分の財産から1000ドルを寄付しようとする場合、それをどの団体に、どのような名目で寄付をすると、もっとも多くの善をもたらすことができるのか。得られる善を事前に評価し、それが最大になるところに寄付の対象を定めることによって、効率よく利他を行おうとするのです。

「利他とは何か」

もっとも多くの善をもたらすことができるのか、事前にリサーチして、効率よく利他をおこなう。この点は、むしろ利他というよりも、その対局にある功利主義を連想させます。

傾向としてこの考えに賛同する方は、慈善事業を行うNPOに勤めるのではなく、お金を稼げるウォール街に勤めることが多く、稼いだお金を効果が高い対象先に寄付をするのだそうです。

いままで考えていた利他のかたちとはまったく異なりますね。ただ、トークンで人が集まり、その結びつきで良いことをするという考え方は、むしろこちらの考え方のほうがしっくりきます。

もしトークンを用いるのであれば、DAOに利他のような内面性をもとめず、効果的利他主義のような考え方、ドライで等価価値の交換の焦点をあわせた関係と考えたほうがうまくいくかもしれません。

最後に…

とはいえ、いま自分が積極的に活動しているコミュニティをドライな関係にしたいかと言われれば、まったくそう思っていません。

むしろ、リアルで会う機会を増やし、「おかげさま」がまわるコミュニティにしたい。だからなおのこと、トークンとの関係が気になります。

DAOは新しい組織形態。定義付けて考えを止めるのではなく、これからもDAOに関する考えを深めていきたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?