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最初の? そして最後の飛翔~鳥にとって飛ぶことの意味

先日、鳥にまつわる面白い体験をしました。その日帰宅すると、自宅の玄関ドアの前に、小さな鳥が微動だにせず、近づいてもじっと立ったままでいました。

私はどうしていいのか分からず、そっと別のドアから家に入り、後から帰る夫にその旨をメールで伝え、とにかくその鳥が無事に飛び立つことを家の中で祈っていました。(それしかできなかったので、苦笑)

というのも、毎年春になると、玄関の上方にある換気扇の排気口の中にツバメと思われる鳥が巣を作って、ヒナが育つと飛び立っていたので、きっと上手に飛べなかったヒナが下に落ちて残されてしまったのだろうと思ったのです。


その後帰宅した夫が、ハンカチでそっと鳥を包むとフワッと自ら飛び立ったと聞いて安心し、生き物が大好きな夫に心から感謝しました。

そして、自力で大空に飛び立つことのできる鳥はすごい、小さくてもどこにでも自由に飛んで行けるのだなぁ、と羨ましく思ったのでした。

でも同時に、私たち人間には翼はないけれど、強い意志を持つことで、自由に飛び立つことは可能なのだとも思えたのです。

そんなとき、最近読んだ「最後の飛翔」という美しいエッセイを思い出しました。それは、美術評論家である椹木野衣氏が、20年近く飼っていたオカメインコの最期について書かれたものです。

 妻はヒナのときそうであったように、体を両手で包むようにして、「怖くないよ 怖くないよ」と声をかけた。それでも辛そうなので、「もう息を止めていいよ 楽になるよ」と話しかけると、突如としてあらぬ上方を見上げて羽を広げ、最後の飛翔を試みた。しかし、飛ぶことはできずに地面に滑り落ちた。急いで拾い上げると、ゆっくりと息をするのをやめ、間も無く生命の活動が停止した。(略)
 妻は鳥の命がゆっくりと抜けていくのがわかった、と言った。そして、前に看取った鳥もそうであったように、最後の最後に飛ぼうとするんだね、とも言った。
(略)
わからないのは、この鳥が最後に自分の羽で飛び立とうとしたことが、人間にとってなににあたるのかということだ。最近はそのことばかり考えている。                  

「ベスト・エッセイ2022」日本文藝家協会編 より「最後の飛翔」椹木野衣著


鳥にとって、「飛ぶ」という行為は、自分が生きている証でもあったのでしょうか。

私だったら、最期に何をするのだろうか。家族や愛する人がそばにいたら、言葉で感謝の気持ちを表わすことができたら幸せだろうし、そばに誰もいなくても、やはり「ありがとう」と言うのではないかと思いました。

幸運なことに、美しい言葉を使うことができる人間に生まれてきたのですから、、、。


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