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「神様じゃなくていいから」

20~30年前にファンだったあるプロ野球選手のことを、最近よく思い返す。

現在応援しているサッカー選手と似ているかも、とふと思ったのがきっかけだ。

現在のご贔屓選手は、Jリーグ川崎フロンターレの山村和也選手。そして当時のご贔屓選手とは、阪神タイガースにいた八木裕さんである。

まず、お二人とも180センチ超えの長身。八木さんは長距離バッターで、山村選手のきれいなロングパスやミドルシュートと通じるところがある気がする。なにより、控えめで穏やかな雰囲気と、クールな職人っぽさが似ていると思う。30年経っても私の好みは変わっていないらしい。


八木さんは阪神タイガースの初代「代打の神様」だった。私が応援し始めたのはその異名がつく5~6年前のことで、当時は五番バッターとして出場することが多かったように記憶している。

私が熱心なファンだったのは最初の数年。その後、受験勉強や大学入学後の生活の変化の中で、プロ野球から少しずつ距離ができていた。気がついたら彼は「代打の神様」と呼ばれていた。最大の賛辞であるはずのその称号は、私の胸に小さな痛みを与えた。

スタメンで出るのが当たり前の選手だったのに、久しぶりにチェックしたらスタメンを外れていて。まあ代打で調子いいみたいだから次の試合あたり戻れるかな、と思ってもやはりスタメンには入っていなくて。またしばらくチェックできていないうちにいつの間にか「代打の神様」になっていて。

スポーツニュースや新聞で大きく取り上げられているのを見て嬉しい反面、ヒットを打っているのだからスタメンに戻してよ、神様じゃなくていいから最初から出して、という思いも消えなかった。シーズン20本塁打の五番打者、からアップデートできなかった。

2004年に引退するまで神様であり続けた八木さん。18年間ただひとつのチームでプレーし続けた選手の引退セレモニーは、本当に感動的だった。


先日のJリーグの試合。川崎フロンターレが最後の交代枠を使ったとき、あの頃の「神様じゃなくていいから」に似た思いがよぎった。

山村選手が怪我から復帰して、姿を見られるだけで心躍らせていたのはつい先々月のこと。わずかな出場時間に留まる試合が続く中で、もやもやとしたものが生まれた。さらに次の試合では出場自体が叶わず。試合展開から覚悟はしていたけれど、最後の交代で名前が出なかったときはなんとも言えない気持ちになった。

昨シーズンにも同じような時期があったはずだが、こんな気持ちにはならなかった。自分がもう沼の縁に立って眺めているだけの人ではないことを自覚する。

インターネットの声を拾えば「彼がベンチにいてくれると安心」とか「こんな選手が控えにいるなんて贅沢」といった言葉が見つかる。いちファンとしてそれらの賛辞が誇らしいのは間違いない。ただ、どんな賛辞よりもプレーが観たい。「豪華すぎる交代要員」じゃなくていいから、少しでも長く観たい。


それでも、と思う。あの「代打の神様」は、代打の神様になったからこそ18年もの間選手を続けることができたのではないか。代打の神様になったからこそ、選手生命をひとつのチームで全うし、素晴らしいセレモニーで締めくくることができたのではないか。

何が言いたいのかというと、その状況だからこそ咲く花があるのではないかということ。スタメンで出られなくなったあの選手が咲かせたのは、紛れもなく唯一無二の見事な花だった。当時の私が諦めきれなかった「ホームランを量産するクリーンアップの不動の一角」という花ではなかっただけで。

目の前の事象に一喜一憂してしまうのは沼にいる者の宿命なのかもしれない。でも、日々浮き沈みを繰り返しながらも、ときどきは「この状況だからこそ咲く花」に思いを馳せ、その花に会える日を楽しみにしながら応援していたい。

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