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「ミドリの森9」 ナコ5

※ 書きかけの小説を少しずつアップしています。
完結させるためのエネルギーにしたくて。
連作ですが、一話ずつ読めます


*     *     *


短く息を吸い、そして呼吸を止める。
空気の流れがなくなり真空が広がった。
磨きあげて、色のないわたしの爪。
そこに、あの日の淡いブルーの空の色を一気に塗った。

金曜日。
休暇を終えて仕事に出て、ひさしぶりに、ミドリさんとわたしが顔を合わせ、そして遅番のサトミが揃った。
平日だし、休憩時間を長く取っていいから、まず自分の爪をきれいにしなさい。ネイルサロンに来る人がみんなが息を飲むような、あなたらしい爪にしてちょうだい。
ミドリさんがそう言った。

バックルームに材料を持ち込み、わたしは自分の爪を描く。

薄いブルーにグラデーションで漆黒の闇を重ねていった。
爪先に向かって濃い黒を重ねる。あの日の空が夜に変わってゆく。
夜の闇のてっぺんには銀色の光。小さくちりばめた銀ラメは爪の先端に集まり、三日月をさかさにしたようなひとすじの銀の天空になった。

わたしの心がみんなそこに集まった。
別れも空虚も雑事も絶望からの解放も、どこにも行けなくて淀んでいたものが、みんなわたしの爪の色に変わった。
きちんとしたカタチになって、心の中から何かがふわりと出ていった。
自分が作るものだけが、本当に自分を映してくれる。
それが誰かを救うほどのものではないとしても、わたしだけは救ってくれるんだなと、そのとき心底思った。

バックルームを出てゆくと、ミドリさんが、ステキねと言ってくれた。
サトミはもっと大げさだった。
「ほんと、奈津子さんてすごい。叶わない。うまく言えなくって悔しいくらいだわ。なんていうか、空がほんとうに爪の一本一本にある感じ?
ああ、わたし、とてもこんなふうにはできないけれど、見てて、すうーっと心の中に広がるような感じで。見てるだけでもう、なんか、いろんなものが溢れてきそう」

夕方近くに来た常連の女性も、同じにしてくれないかと言った。
「明日のパーティーのドレスに似合いそう、同じデザインにして」と。
パーティーならばもう少しばかり華やかにしませんか? と爪先の銀に金色も織り混ぜた。
なくなった母親を見送った日の空の色よりも、あなたの明日がもっと明るい空になうようにと心の中で祈った。
「ほんと、こんなにステキにしてくれてありがとう! 」と常連の女性は喜んだ。「ああ、明日着るラベンダーのドレスが楽しみ」

小さい頃から、絵を描くことが好きだった。
留守番してる自分のさみしさを忘れるための小さななぐさめ。
それが今になっても、まだわたしが生きのびるために小さななにかを与え続けてくれている。
忙しく貧しい暮らしの中で母は、100均のペラペラの落書き帳だけは切らさないでくれた。クレヨンも色鉛筆も、みんな100均だったけれど、それはボロボロになった菓子箱の中に宝物のようにひしめいていた。

おかあさん。悪いことばかりじゃなかったよね。
あの頃わたし、おかあさんが帰ってくるのがとても待ち遠しかったよ。
きれいな絵ね、っておかあさんが言ってくれるのが、ほんとうに嬉しかったんだよ。

きっとそれが、わたしの1番最初だったんだよね。

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