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「虎に翼」のオープニングの歌とダンスが好きで、あれを見てると、天に唾を吐いてみたくなる

 「トラツバ」好きです。
 ドラマもちゃんとみてるけれど、なんと言ってもオープニングのダンスが好き。

 伊藤紗莉の表情も、絵画っぽい加工も好きだし。米津玄師の歌も好きだけど。
 ときどきこの「軽やかだけど、一貫したメッセージ」みたなものに朝からやられてうっかり泣いてしまいそうになるんです。
 悔しかったり、馬鹿げたりしてて、天に唾を吐いていた過去を思い出します。

 わたしは、そのことを恨んだりはしていないし、今はもう自分なりの居場所を獲得している。
 でも、それまでにいくつもの馬鹿な暴言と、差別という言葉で表現する以前から存在しているような「性差別」的なものはもちろん当たり前のように受けてきました。

 そして、それはわたしがなんとか自分の中で折り合っているからそれでいいというものではないんだと思うんです。
 どっちかっていうと、目を背けながら生きているよね。

 だから、いつまで経ってもわたしたちは変われないのかもしれない。

 つまり。向き合うことをやめて、それでいつのまにか大人になってしまったってこと。

 大学に入ってからの男性の同級生に「俺が女だったら、わざわざ勉強して大学なんかにいかなかった。そんなことしなくても生きていけるから」って言われてびっくりしたこと。
 お給料が当たり前のように男の人より低かったこと。
 シューカツでは「結婚の予定や希望」について必ず聞かれるから、「予定も希望もない」と言おうねって友人と話したこと。
 男尊女卑な土地柄のところに住んで「(旦那のいうことは)ハイハイって聞いておけばいいのよ」と同年代がみんなふつうに言っていたこと。
 仕事をたてに、体の関係を迫ってくる人がいたこと。
 そして、それを逆たてにして、体の関係で仕事をとっている友人がいることを知ったこと。
 どこかで力関係で負け続けていたこと。
 負けて負けて負け続けて、「負けることとは別の王国」を自分の中に築くことはできたけれど。
 わたしは、誰かやこの世界のために「天に唾を吐く」ことはしなかったこと。
 わたしの大好きな場所でも、おんなであることで低く見る人もいるし、そういう人はどんな真摯ことをわたしが言っても、ぜったいに男性より下に見てるってことを今でもきちんとわかっているということ。

 相手を尊重できない人なんてたくさんいる。
 その中のひとつとして、女性を馬鹿にしている人もいるし。
 自分よりも偉い(と思われる職業)に女性がついていることが認められない人もいる。

 わたしは逃げたわけではないけれど、やり過ごすことは覚えてきた。
 くやしい思いはしたけれど、別の王国を作ることは覚えた。

 でも、それが100年変わらないものの根元にあるのだとしたら。
 わたしは何をしたかったんだろう?と思ってしまう。

「とらちゃん、わかるよ、がんばれ」

 それくらいしか言えないけれど。
 あのオープニングを見るだけで泣きたくなってしまうのは、ほんとなぜなのさ。
 と、思ってしまうんだよ。



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