「哀愁しんでれら」が教えてくれる、心に風を通す大切さ
換気、してますか?
僕は毎朝起きると部屋の窓を開けるんですが、冬はほんとうにつらい。そもそも布団から出たくない。布団から出ないだけで儲かるビジネスを考えてくれたら僕以外の誰かがノーベル経済学賞を与えてくれると思います。
それでも、つらいけど、やめられないんです。夜に溜まった部屋の空気と、キリッとした朝の空気が混ざっていく感覚がいいんですよね。
というわけで、金子ゆうきです。
いつもは最新の劇場公開映画を批評している「シネマのレンガ路」ですが、今回は違います。2021年2月に劇場公開された日本映画『哀愁しんでれら』をご紹介します。
画像出典:映画.com
DVD/Blu-rayのソフト版や、各種配信サービスで見られます。僕はU-NEXTで見ました。
決定的なネタバレはしません。ぜひ、映画評を読んでからご覧ください。映画を見てから読んでも楽しめると思います。
笑える不幸、不穏な幸せ
『哀愁しんでれら』は、映画クリエイターや作品・企画を発掘するTSUTAYA発のコンペティション「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM」で2016年にグランプリを受賞した作品です。5年をかけて劇場公開を果たしました。
監督は、渡部亮平さん。
映画、TVドラマの脚本家として活躍し、2012年には自主制作で映画『かしこい狗は、吠えずに笑う』を監督しています。
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主人公は、土屋太鳳さん演じる小春。小春は、児童養護施設で働いており、祖父・父・妹と一緒に暮らしています。母は、小春が10歳の時、家族を置いて出ていきました。それがトラウマとして、彼女の心に影を落としています。
「あんな母親になりたくない」
映画の冒頭で、小春の仕事ぶりや回想から、彼女が「理想の母親像」に縛られているのが手際良く語られます。
小春の環境を示してからは、ドリフターズのコントのように彼女を襲う不幸の数々。笑えない状況なのに、思わず吹き出しそうになります。ブラックコメディ的な味わいは『かしこい狗は、吠えずに笑う』から共通する渡部監督の持ち味です。
そもそも、タイトルが「哀愁」と「しんでれら」の組み合わせですからね。ネガティブとポジティブの組み合わせ。童話のシンデレラは、哀愁なんて感じないでしょう。郷ひろみじゃないんだから。よろしく哀愁。王子様と末長くアチチアチな関係で暮らしていくはずです。
不幸のナイアガラフォールに打たれた小春ですが、その後はタイトル通りのシンデレラストーリーが待っています。
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田中圭さん演じる開業医の大悟と出会い、小春一家は丸ごと支援を受けます。小春の友人がいう「白馬にのった王子様より、外車にのったお医者様よ」は、劇中屈指の名セリフ。大悟の娘・ヒカリとも良い関係を築いた小春は、大悟との結婚を決意します。
入籍後、家族になった小春と大悟、ヒカリが海辺で踊るシーンがあるんですけど、序盤の「不幸の連続をコミカルに演出する」とは逆で「幸せの絶頂を不穏に演出」しています。
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3人はいたって幸せそうなんですよ。土屋太鳳さんは、高校時代に創作ダンスで全国大会出場し、そのあと日本体育大学を卒業しただけあって、身体の使い方が抜群で魅力に溢れます。ただ、曇天で画面もくすんだようにつくられています。
幸せの絶頂のはずなのに、不穏。ガラスの靴を履いて王子様に見初められたシンデレラを待っている未来とは……。
「哀愁しんでれら」という不思議なタイトルが、見終わる頃にはピタリとハマってきます。
価値観グラグラ系映画の系譜
シーンの演出だけでなく、キャラクター描写も両面性が際立ちます。良い人だと思っていた人の裏の顔。そして、その逆。
ぐらぐらゲームって覚えてますか?
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底が半球のようになっている柱に人形を乗せていくゲームです。どこに人形を乗せてもいずれかに傾いてしまう。
そんな感じなんですよね。「この人はこう」と思わされたら、逆側に人形が乗せられてグラッと傾いてしまう。見ている僕らを安定させてくれません。
似た感覚の映画として『スリー・ビルボード』を思い浮かべました。娘を殺され、警察と戦う母親に見えていた主人公のエスカレートする狂気。人種差別する悪徳警官に見える男の意外な一面。見ている側の思い込みは暴かれ、見た後に世界の見え方が少し変わってしまいます。
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『哀愁しんでれら』は、『スリー・ビルボード』と同じ、価値観をグラグラ揺さぶる映画の系譜に連なっていると思います。
オープニングで小春が「母親失格」と断じる女性が出てきます。僕も「その通り」だなと共感しました。後半、小春は同じ女性に遭遇するんですが、その時はオープニングと違う見え方になっているんですよ。
小春と女性の立っている場所が逆転してしまっているように描かれます。しかも、その舞台が公園、ブランコなんです。『哀愁しんでれら』を見ている間の価値観を象徴するかのように、激しく揺れ動く装置として使われます。この辺も巧みなんですよ。
同じ女性が違って見える。それは、女性を見ている小春の視点が変わっているからに他なりません。
小春が相手を、世界を認識した結果です。小春を通して、僕らは自らの善悪や価値観の不安定さを実感することになります。
渡部監督は、インタビューでこのように語っています。
自分が理解できないという側の視点に立ってみることは重要じゃないかな、というところです。理解できないと思う人の人生を体験してみる重要性というか、小春の目を通して、想像できなかった側の視点に立ってみる価値はあるんじゃないかな、と。
出典:シネマカフェ
ショッキングなラストは実際に見ていただくとして、視点を小春たち家族にもってくれば、ハッピーエンドにも見えてきます。
この感じは、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』的な要素を孕んでいます。『ミッドサマー』は、主人公が北欧の一見牧歌的な共同体の奇妙な因習に絡めとられていく話でした。どちらの作品も、ラストの解釈を誰の目線でするかで真逆になるんです。
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小春たち家族が見つけた幸せ、ぜひ見届けてほしいです。
その時、何を信じるか?
劇中、他人事だとはとても思えない場面がたくさんありました。
それは、娘のヒカリに関わること。特に「ヒカリは本当のことを言っているのか?」についてです。
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クライスメイトに起こる、ショッキングな展開にヒカリはどう関わっているかなど、劇中で明かされない「真実」は、渡部監督が劇場パンフレットで明言されています。
ただ、映画の中で重要なのは「真実」ではなく、小春や大悟がなにを「事実」だと信じるかです。
娘の言うことを信じるか、他の人が言っていることや状況を信じるか。
僕にも同じような記憶があるんです。奇しくも劇中のヒカリと同じ、小学2年の長男に関わる出来事です。
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2021年の秋頃。
長男がクラスの男の子を定規で叩いたと、担任の先生から連絡がありました。ふざけ合っている中で起こったことらしい。ただ、先生も現場を見たわけではなくて、相手の子がそう言っているとのことでした。
長男は良く言えば社交的で活発、悪く言えばお調子モノなので、ありえることだとは思いました。それまでも、ふざけ合いでちょっかいを出すことは時々あったので。
しかし、叩いたとなると話は別です。事実なら、相手への謝罪も必要です。
担任の先生の話だけで決めつけるわけにはいかないので、本人に確認をしました。ただ、いくら聞いても理由を答えない。
「どうして叩いたの?」
「・・・・・・・・」
このやりとりが数十分続きました。
「どうして叩いたの!」
「・・・・・・・・」
苛立ち語気を強めたこともありました。ダメな親です。
ようやく口を開いて出た言葉が、「ぼく、たたいてない」だったんです。
え??
瞬間、困惑しました。言い分が食い違っています。どちらを信じるべきか……。
その後、長男は「たたいてない」と繰り返します。せきとめた気持ちを吐き出したからでしょう。
思えば、「目の届かないところで子どもに何かが起こる」ってほぼ初めてだったんです。保育園までは、クラスの人数も少なくて基本的に保育士さんの目が届くところに全員いますから。
迷った結果、「たたいてない」を信じることにしました。
「僕は、君を信じるよ」という僕の言葉に、長男が安心したような顔をしたことを、今もはっきり覚えています。
担任の先生に長男の言い分を伝え、再度確認してもらいました。その結果、長男は本当に叩いていなかった。相手の子はそのことを親に伝えて担任に伝えていたけど、確認が遅くなってしまったとのことでした。
心の底から安心しました。
「誰が悪いか」なんて言うつもりはありません。ただ、長男の言葉を信じて良かったなと思うし、もし信じていなかったら彼との関係性がガラリと変わってしまったかもしれない。そう考えると、恐ろしい。
また、「子どもの言うことは100%信じるべき」だとも思わないんです。自分を守るための嘘は、誰にでもあるでしょう。もちろん、大人である僕にだって、です。
「必ずこうすべき」なんて答えは、夫婦や親子にないと思います。結局、その時、その瞬間に悩んで考えて、その時なりの答えを出すしかない。「愛」の下にすべてを信じてしまうのは簡単で、だからこそ危険なんです。
そんな盲目的な行動をしてしまったのが大悟であり、終盤の小春だと思うんです。
心に風を通しましょう
「娘のためならなんでもできる。たとえ世界を敵に回しても」
劇中、大悟が小春に告げるセリフです。
一見正しく、親の愛の証でもあります。
しかしですね、とても恐ろしい言葉だと思いませんか。『哀愁しんでれら』のラストは、それを見せつけてくれます。何をしても言っても、信じる、味方になる。たとえ間違っていても盲目に受けいれる。そもそも間違っている可能性すら考えない。
「愛」は世界のかたちを歪ませてしまいます。
出典:映画.com
そして、愛によって歪んだ世界は「家」という閉ざされた空間の中で固定化されます。
「家族」という檻のできあがりです。
大悟の豪邸は、世間から距離を置いた楽園のようで、実際は愛が淀んだ檻だったのかもしれません。一見質素な小春の実家の方が、「外」に開かれ風通しが良いように見えてきます。
2つの「家」の見え方も映画の中で反転します。
価値観が揺さぶられ、自分の立っている場所が檻の中なのか外なのかも分からなくなる。「哀愁しんでれら」は、そういう映画です。誰だって、知らず知らず自分の心にも檻を作っているのかもしれません。
だからこそ、たまにでも風を通し、空気をかき混ぜるのが大切だと思うんです。そのためには、まず扉を開けて内と外を失くしてしまうこと。ある種の映画は、扉を開ける鍵になることもあるんです。
扉を開けてみると、気持ちの良い風が通り抜けるかもしれません。
『哀愁しんでれら』は、決して楽しいだけの映画ではありませんが、それでも見た後に胸がすくのは、心の檻が少しだけでも開かれるからかもしれません。
『哀愁しんでれら』のポスターに描かれたキャッチコピーを覚えていますか? 「なぜその女性は、社会を震撼させる凶悪事件を起こしたのか」です。そういう映画を見て、心に風が通ったと思うこともある。それこそ、人間の複雑さ。柱のどこに人形を置いてもグラグラと傾くおもしろさじゃないでしょうか。
僕も、思わず記憶を吐露してしまいました。あの時の気持ちを思い出して、あらためて家族との向き合い方や自分の価値観に風を通しておきたいです。
渡部監督には、これからも見る人の価値観を揺さぶる強烈な映画を作っていってほしいです。
そしてまた、心の換気をさせてほしいです。
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