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骸骨の話

それはおもちゃとして

ガイコツを買った。たった700円にも関わらず、15箇所も可動する素晴らしいガイコツである。こんなガイコツ何に使うのか?と問われれば、間髪入れずに「別に何も」と答える自信がある。しかし、無駄なモノこそが文化である。人生から無駄を取り払ったならば、そこには結果としての「死」しか残らない。また、無駄なモノにすら意味を見いだす行動こそが、ヒトを人間たらしめる所以であるとも思っている。あらゆる事象に対して、本能的ではなく理性的に意味を求めることが猿と人間の線引きであると私は考えているのだ。

なんでこれ作ったのだろう


話は逸れたが、ガイコツはあらゆるところが動くので、様々なポーズをとることができる。この関節の動き具合、止まり具合に製作者のこだわりを感じる。とにかく、ストレスなく遊べるのだ。ただ、当然ながらふんばる力は皆無なので、体勢によってはなかなか立たない。それはそれとして、加減するのもまた一興である。 デザイン的にも少しアタマが大きく、それによりガイコツはなにをしてもコミカルに見える。 次の日の仕事を忘れて夜な夜なガイコツて遊んでいると、ガイコツとは一体何だったっけか?という実体版ゲシュタルト崩壊に陥った。ガイコツをガイコツと認識できなくなってきたのである。

骸骨≠ガイコツ




よく考えなくとも、そもそもガイコツは我々の中身である。キモいオッサンもキレイなおねいさんも中身はガイコツだ。 ガイコツは中身であるがゆえに「死」を想起させる。そういうわけで、広く世界では不吉の象徴とされている。それをこのような玩具とすることで、このガイコツはガイコツの形でありながら記号としてのガイコツからは逸脱している存在となる。Tシャツにプリントされたガイコツにも同じことが言える。街でよくヤンキー一家が子供にガイコツTシャツを着せているが、あれはもはやガイコツではなく、服についたガイコツに見える模様なのであろう。「縁起悪いな」という観点ではなく、「趣味悪いな」という観点で語るべき代物なのだ。

ジェネレーションギャップ



高校の頃、某友人T君が年賀状がわりにガイコツの貯金箱を用意した。そのヒタイに「賀正」と一筆入れて某友人T君がH君の家の玄関に置いた。無論、これは『はだしのゲン』のパロディである。我々にとってはシャレコウベだけに「シャレ」だったのだが、某友人H君の父親にはそれが通じず「新年から何てことをするのだ!」と激昂した事件があった。 当然と言えば当然の帰結である。我々にとってはガイコツのカタチをしたプラスチックの塊に過ぎないそれは、父君にとっては不吉の塊だったのである。

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