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恋と愛の違いと、死ねない理由について。

 死にたいと思うことがなくなった。死ねない理由ばかりが積み重なっていくけれど、生きたいという理由にはならない。死ねないだけ。私の死ねない理由がなくなったら、私は死にたくなるのだろうか。

 高校生から社会人1年目にかけて、私はオタク(アニメ・漫画好き)だった。好きな作品の展開に一喜一憂し、泣き、笑い、日々を楽しく過ごしていた。推しが輝く姿を見ているのが好きだったし、私自身の妄想を具現化した同人誌も出した。

 大学4年から社会人1年目にかけて、舞台にハマった。小劇場で紡がれる物語に魅了された。好きな脚本家もできた。その人の作品のために、何度も劇場に足をはこんだ。今でも見に行きたいと思っているけれど、昨今世間を騒がせる感染症のせいで行けないままだ。

 社会人2年目は生活が狂うほどの何かに出会わなかった。相変わらずアニメも漫画も舞台も大好きだったけれど、死ねない理由にならなかった。
 この時の私には死ねない理由はなかったけれど、定期的に人と会う約束があったから生きることを止める機会を見失っただけかもしれない。

 今の私は、死ねない理由と生きるのをやめる理由を同時に抱えている。

 私には恋人がいる。年下のとても可愛らしくて優しくてかっこいい自慢の恋人だ。こんな素敵な人がいたのかと思いたくなるくらい、私は彼の恋人であることを嬉しく思っている。

 私にとって死ねない理由は恋人だし、生きるのをやめる理由もきっと彼だ。彼に会うことを、彼の声を聞くことを仕事のご褒美だと思っている。
 「おはよう」からはじまる毎日のLINEも、通話もなにもかもが私が生きることを頑張る理由だ。

 これを依存と呼ばずになんと呼ぶ。
 恐ろしいくらい依存していることを自覚している。彼を失った時、私はどうなってしまうのだろう。泣き叫んで喪失感に押し潰されるのか。空虚さで我を失うのか。それとも、悲しいと思いながらいつも通り生き続けるのか。

 たぶん、普通に仕事に行って、帰ってきてご飯を食べてお風呂に入って、TwitterとYouTubeを見て寝るのだろう。

 私は彼に恋をしている。
 大好きだし、好きだと言って欲しいし、手を繋ぎたいし、抱きしめて欲しい。私の恋人でいて欲しい。会いたい、会って笑っていたい。

 これはきっと恋であって愛ではない。私はまだ、彼を「愛している」という領域まで到達できていない。彼のことを欲しがってばかりで、わがままを言っているだけ。彼のほんとうの幸せを、きっと願えない。

 例えば、彼が私以外を好きになったとする。彼が好きになった人も、彼のことを好きだったとする。その人は完璧なほど彼とお似合いで、私と彼が別れれば全て幸せに終わるとして、私は笑って彼の手を離せない。

 みっともなく縋って、泣いてしまうだろう。何度も「いいよ、別れよう」と言う練習をして、起きてもないことに泣いてしまった。失うことが怖い。彼は私のものではないのに、私は彼を失いたくない。

 これがもし愛ならば、私は笑って手を離せるのだろう。彼がそう願うのなら、彼が幸せになれるのなら、私は彼の幸せを一番に考えて全てを投げ打ってでも彼の笑顔のために尽くせるのだろう。

 愛とは、その人のために自分の感情を犠牲にできることだと思う。

 大岡裁きをご存知の人もいるだろう。子供の母親を名乗る女が二人、子供の手をそれぞれ引っ張らせて先に手を離したほうが本当の母親だという、有名な話しだ。

 痛がる子供に胸を痛め、私の子供と認められなくていいから手を離す。これがきっと愛の形だと思う。

 英語の I love you と、 愛している は違うものだと思っている。

 恋は欲するもので、愛は与えるもの。

 私の中での恋と愛の定義は、明確に別れている。

 私にとって死ねない理由が彼に恋をしているからだというのなら、私にとって生きる理由が彼の幸せになった時、私ははじめて彼を愛していると言葉にするのを許そう。

 私は死ねないまま、幸せに生きている。恋人の腕に抱かれて眠る幸せも、左の薬指の約束も、「好き」に「好き」が返ってくる嬉しさも全部抱えて死にたくないと思っている。

 時々、不安になる。私と彼が別々になる想像が頭を支配する。

「不安になるんだ」と言った私に彼は「その度に大好きって伝えるね」と言ってくれた。たったそれだけで救われる私がいる。

 言葉って偉大だ。たったそれだけで人の心を救えるのだから。


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