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人の数だけ正解があるから、私の好みの話しをしようと思う。

 昔から、文章を書くのが好きだった。宿題の作文、小説、手紙、Twitterもよく呟くし、ブログもやっていた。noteも、過去何回かアカウントを作り直してはいるけれど、こうして続けている。

 文章の書き方に正解はあるのだろうか。「てにをは」や句読点の付け方、正しい日本語などという教科書的な正解はあるだろうけれど、結局は好みだと思う。

 例えば読まれやすいnoteの傾向についてとか、考えたりしたこともあったし、検索したこともある。目次をつけたり、1つの記事の文字数は少なめにするとか、段落を分けて改行するとか。読まれやすい内容とか、書き出しとか、タイトルの付け方とか。

 考えて書いていた頃もあった。昔の私は、数字にならない現実に暗澹とした気持ちを抱えていたこともある。承認欲求の塊だったし、今もたぶんそういう気持ちはどこかにある。

 数字を気にしなくなったのは、就職して少ししてからのことだった。半年ほど、文章を書く生活から離れていた。大学生の私は、毎日のように言葉を書き起こしていたのに、仕事をはじめた私には気持ちを言葉にするのさえままならなかった。その頃に始めたのが配信アプリで、私は今の恋人とそこで出会ったので必要な時間だったのだと思う。

 話しを戻すと、万人受けする文章の書き方はたくさんあると思う。多くの人が知りたいと思うような情報とか、興味をもたれる話題に手を出して見た頃、私は文章を書くことが苦痛だった。
 それらは、私にとって興味のないことばかりで、なんでこんなことしているんだろう?と思っていた。

 今、私は数字に追われる仕事をしている。職種で表すのであれば、営業職というもので、毎日のように実績を積み重ねることを要求される。そんな中、プライベートの時間も数字に追われるのが億劫になって、私は人の目を気にするのをやめた。

 スキがついたら嬉しいし、コメントをいただければ飛んで喜ぶ。そういう気持ちも、認めて欲しい気持ちもあるけれど、私は数字を気にしないようにしてきた。私にとって好きな文章を、私が書きたい文章だけを書くと決めた。

 私は書くのと同じくらい、人が書いた文章を読むのが好きだ。エッセイもお役立ち情報も小説も、電車の広告だって読むけれど、一番好きなのは美しい文章を読むこと。それは、どんな美しさだっていい。

 詩的な美しさ、無駄のない機械的な美しさ、言葉選びが綺麗だったり、テンポが良かったり。それぞれの美しさを感じては、読後に「いいものを読ませていただいた」という気持ちになる。

 noteという場所に求めるのは、そういう美しい文章だ。誰の校正も受けていない素人の(文章を仕事にしていないという点において、素人と表記する)文章。あるいは、玄人の(文章を仕事にしているという意味)文章。どちらも好きだし、読みたいと思う。

 一番読みたいと思うのは、感情の発露のような小説的なエッセイだ。荒れ狂うような文章より静かな方が好きだ。凪いだ海のようなもの。
 今、私はこのアカウントで「#エッセイ」とつけた文章を投稿している。なんとなく違うなぁと思っているけれど、とりあえずつけているだけだ。

 私はエッセイのようなもの、が読みたい。できれば文章は小説のようにやわらかであって欲しいし、学校で読んだ意思の強いエッセイは苦手だ。自由に書き綴った散文だから、書く方になにも思いはしないけれど読みたくなるのはそういうもの。

 人の感情の発露、小説のようにその人の感情を得られるもの。日々の物事を書き連ねてあるよりも、感情を書き連ねて欲しい。単に私の好みの問題なので、誰も囚われる必要はない。

 私は私の好きなように文章を書くし、あなたはあなたの好きなように文章を書いて欲しい。私は好きな文章を読みにいくし、あなたもそうであって欲しい。
 もちろん、数字を出したいというのならばその努力を惜しまなければいいと思う。私には無理だったけれど、あなたならきっとできるはず。

 誰かのスキになれたらいいけど、私自身が私の文章をスキでいたい。スキなことを好きなように書いていたい。そうすればきっと、私のnoteは私の宝物になるに違いない。

 偉そうに書いたけれど、私は私の好きにしたいってだけの話しだ。

 ただなんとなく、決意表明のように残していたかった。いつか迷走して、未来の私が苦しまないように。

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