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何者でもない私たちにも生活はある

 私は無職だ。目的もなく、日々をのうのうと過ごしている。私の人生は無限に停滞している。親の貯金を貪って、時間という蝋を溶かし、若さの炎をか細く燃やしている。その炎は今にも消えてしまいそうなほどに弱い。その炎とは人生という暗闇を照らす、希望の光であるから。
 それ故私は、自分の存在に不安を感じる。私より年下の球児たち・バスケットボールの日本代表・二十四時間テレビに出ていた方々、その全員が、目的を持って、希望はなくとも、自らの命の炎で未来を照らして、毎日を生きていた。そして、私たちはその彼らの姿を見て、彼らを認識して、彼らを応援して、そして間違いなく彼らに感動をもらった。その時彼らの存在は、私たちによって担保されたのである。彼らは未来と私たち、すなわち、内側からも外側からも存在を保証された。では私は? 私も彼らと同様に生きてはいる。しかし、生きているだけだ。それ以外は何でもない。私の存在を、誰にも保証されていない。(彼らの存在を証明する私たちの存在が証明されなければ、彼ら自身も外側から存在しないことにならないか? 内側からの存在を保証された彼らの存在を保証することそれ自体が、私たちの存在証明にはならないか?)
 私の人生は無限に停滞している? それは嘘だ!! 私の人生は無限に到達しているのだ。なぜなら存在を保証されていない私は、死んだも同然の人間であるから。

 しかしそれでも、私は生活をやめない。死は怖い、これは本能的な話だ。死の暗さと、私の未来の暗さ。それは同様の・同質の・先の見えない・光を吸収してしまうくらいの真っ暗な闇だ。それでも、私は死を恐れて、生活を貪る。

 ノートの記事にはパターンがある。大抵、上記のような暗い考えは日常の気付きによって、解釈が変わり、カタルシスがある。断っておくが、私のこの手記にはカタルシスはない。私は自分の感情には素直でいたい。自分の感情に素直になったその結果、職がないのだが……。
 私は私を知ってほしい。歯牙にも掛からない私のような人間にも生活がある、それを貴方にわかってほしい。この文章を読むそこの貴方に、何者でもない私に気付いてほしい。
 私は貴方で承認欲求を満たし、現象世界に対し、私の確固たる存在を確立したい。私は貴方に依存して、カタルシスを得たい。それ故にこのノートを書いた。
……。

 傍若無人か? 厚顔無恥か? それでいい、なりふり構っていられないのだ。私は無職だ、恥なんてない。むしろ、恥とは他人の存在によって初めて生じる感情だ、それは主張する影ではない。他人という光に照らされた自意識に付き纏う影だ。恥を感じた時、私は自分の姿を世界に見るだろう。
 何者でもない私は、恥ずかしい自分としてこの世界に生まれるだろう。

 何者でもない私たちにも生活はある。しかし、生活のある私たちが、必ずしもこの世界に存在しているとは限らない。

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