第2章 独学者たちの物語(その1)
1.外国語を独学でマスターした人たち
外国語を独学で習得したシュリーマン
この章では、独学によって成功した人たちについて述べよう。ここで取り上げるのは、有名な人たちだ。独学で成功した人は、これ以外にはるかに大勢いるはずだ。
外国語を独学で習得した人は、大変多い。
有名なのは、ドイツ人の考古学者ハインリッヒ・シュリーマン(1822年-1890年)だ。ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアの話を幼いときに聞き、それが実在すると信じて、実際に発掘して証明した。
13歳でギムナジウム(ヨーロッパにおける8年制の中等教育機関)に入学したが、貧しかったので1836年に退学。食品会社の徒弟になった。その後、ロシアなどに商社を設立して、クリミア戦争中に莫大な利益を得た。
シュリーマンは、多くの外国語に精通していたことで有名だ。英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語など、18カ国語に堪能だったと言われる。
英語は、わずか半年間でマスターした。
全文丸暗記法
その方法を、彼は、『古代への情熱―シュリーマン自伝―』(新潮文庫、1977年)で述べている。
彼は「どんな言語でもその習得を著しく容易にする方法を編み出した」と言い、「その方法は簡単なもの」だと言っている。それは、具体的には、つぎのようなものだ。
大きな声でたくさん音読すること、ちょっとした翻訳をすること、毎日一回は授業を受けること、興味のある対象について常に作文を書くこと、そしてそれを先生の指導で訂正すること、前の日に直した文章を暗記して、次回の授業で暗誦すること、である。
よい発音を身につけるために、「日曜には定期的に二回、イギリス教会の礼拝式に行き、説教を聞きながらその一語一語を小さな声で真似てみた」とも言っている。
重要なのは、長い文章を丸暗記したことだ。オリヴァー・ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』とウォルター・スコットの『アイヴァンホー』を全文暗記した。
同じ方法を、フランス語の勉強にも適用し、フランソワ・ド・フェヌロンの『テレマコスの冒険』と、ベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』を暗記した。そして、フランス語も六カ月でマスターした。
ロシア語については、書物も教師も見つけることができなかったので苦労したが、「文法書によってロシア文字とその発音を頭の中に叩き込んだ。それからまた以前のやりかたを踏襲して、短い作文や物語を書いてはそれを暗記した」と言っている。
そして、6週間後には、初めてのロシア語の手紙をロンドンのロシア人商人に出すほどに上達した。また、ロシア語で流暢に語り合うこともできた。
この手紙がきっかけで、のちにロシアに移住し、貿易商を営んだのだ。
この当時は、外国語の音源を得るのは大変だったに違いない。
ただ、外国語を話せる人は非常に少なかったから、勉強すれば、需給面で非常に有利な立場に立つことができた。シュリーマンがビジネスで成功を収めたのは、その語学力に負うところが大きい。実際、彼がのちにロシアに移住して貿易商を営めたのは、最初にロシア語で書いた手紙がきっかけだった。
誰かに聞かせる
ところで、彼は、つぎのようにも言っている。
だれかにそばにいてもらって、その人に『テレマコスの冒険』を話して聞かせることができれば、進歩が早くなると思ったので、私は貧しいユダヤ人を一人、週四フランで雇い、ロシア語はひとこともわからないその男に、毎晩二時間私のところへこさせてロシア語の朗読を聞かせた。
つまり、自分1人でやるよりは、人に聞かせれば励みになると言うのだ。そのため、金を払って「教えを乞う」のでなく「教えた」のである。これは、勉強を継続するための重要なポイントだ。これについては、第6章で述べる。
なお、彼は考古学についても正規の教育を受けたわけでなく、「素人学者」だった。
フォン・ノイマンも丸暗記法
以上で見たように、シュリーマンの勉強法の基本は、「外国語の本を1冊すべて暗記する」という方法だ。ハンガリー生まれの数学者ジョン・フォン・ノイマン(1903年-1957年)も同じ方法だった。彼は、「20世紀最高の数学者」と言われる天才である。現代のコンピュータの基本原理(プログラム内蔵方式)を考え出した。
ノーマン・マクレイ『フォン・ノイマンの生涯』(朝日選書、1998年)によると、6歳で、古典ギリシャ語で父親とジョークを言えた。ドイツ語も自分で学習した。ウィルヘルム・オンケンの44巻本の歴史書『世界史』を読了した。チャールズ・ディケンズの『二都物語』の冒頭十数ページは、一言も間違えずに暗誦できた。
1930年代に、ナチス政権を避けてアメリカ合衆国に移住したのだが、英語は、『ブリタニカ百科事典』のいくつかの項目を丸暗記することで勉強したそうだ。
独学とは関係ない話だが、ブダペストのルーテル・ギムナジウムにおける彼の同窓生ウィリアム・フェルナー(経済学者、イェール大学教授)は、私の先生である。
ところが、イェール大学の数理経済学の時間に先生(ハーバート・スカーフ教授)が説明してくれたところによると、フォン・ノイマンは、同書に満足していなかった。そして、いつかは書き直そうと思っていた。しかし、結局それは実現できなかった。なぜならば、彼はあまりに多くの仕事を抱えていたからだ。原爆の開発があったし、量子力学の数学的基礎を作る必要があった。そして、コンピュータの基本概念を作る必要もあった。
独学での語学学習者をもう1人挙げれば、小説の登場人物だが、スタンダールの小説『赤と黒』の主人公、ジュリアン・ソレルがいる。貧しい材木屋の三男坊として生まれ、家の仕事の合間にラテン語を勉強した。
レナール夫人との出会いの最初の場面で、旧約聖書と新約聖書のラテン語版のどこでもすらすら言えたというのだから、聖書全部をそっくり暗記していたわけだ。
「丸暗記方式」というのは、ユダヤ人の伝統であるようだ。熱心なユダヤ教徒は、旧約聖書を自由自在にそらんじることができると言う。一般にユダヤ人に知能の高い人が多いのは、本の丸暗記という教育方法が伝統的にあるからだと言われる。フォン・ノイマンの両親も、ユダヤ系ドイツ人だ。
2.良き時代のアメリカの独学者たち
印刷物を読みあさるフランクリン
18世紀から19世紀のアメリカには、独学で成功した人が多い。アメリカ式サクセス・ストーリーだ。
まずは、ベンジャミン・フランクリン(1706年-1790年)。彼は、1776年にアメリカ独立宣言の起草委員となった。トーマス・ジェファーソンらとともに、独立宣言に最初に署名した5人の政治家のうちの1人だ。
政治家であるだけでなく、物理学者、気象学者でもあった。凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたのは有名だ。
彼の独学ぶりは、『フランクリン自伝』(岩波文庫、1957年)などで知ることができる。
学校の成績は優秀だったが、学費の負担が重いので、10歳で退学し、印刷業者の徒弟になった。
仕事場にある本や新聞などの印刷物を、仕事の合間に読みあさった。それによって、数学や科学の初歩を学ぶことができた。
昼休みになると、フランクリンは1人職場に残って、弁当をさっさと食べてしまう。あとは本を読んで過ごした。弁当なら、お金が節約できるし、勉強の時間もとれる。一石二鳥だったと、彼は述べている。
あるとき、活字を組んでいた哲学書の内容に根本的な誤りがあると感じ、それを論文にまとめ、活字に組んで、小冊子としてわずかな部数印刷した。
冊子を読んだライオンズという人物が訪ねてきて、バーナード・デ・マンデヴィル(1670年-1733年。『蜂の寓話』という著書で有名な思想家)を紹介してくれた
フランクリンが印刷物を読みあさったという話は、面白い。私が大蔵省(現・財務省)に入省した頃のことを思い出した。その頃、コピー機が登場した。新入職員の仕事は、コピーをとることだった。1枚余計にコピーをとって自分自身の資料にしている同僚がいた。彼は、それを読んで、役所の仕事を「独学」していたわけだ。
独学人生のリンカーン
エイブラハム・リンカーン(1809年-1865年)は、「歴代アメリカ合衆国大統領のランキング」において、しばしば、「最も偉大な大統領」に挙げられている。
ケンタッキー州の1室しかない丸太小屋の貧しい家に生まれた。正式な教育は、巡回教師からの18カ月間の授業だけで、あとはまったくの独学。借りることのできたすべての本から学んだ。
青年時代にイリノイ州に移住し、船乗り、店員、民兵などとして働き、測量術を独学して、測量技師の仕事についた。イリノイ州の下院議員選挙に立候補し、25歳で初当選を果たした。
その後、独学で法律を学んだリンカーンは、28歳で試験に合格し、弁護士の資格を取得した。
その学習方法について、「私は誰にもつかずに学んだ」と語っていたそうだ。まさに、自助努力の人の典型だ。
弁護士になってから後も、独学で腕を磨いた。毎晩、最高裁判所の図書館に行き、担当している訴訟に関係のある判例を研究した。彼の書いた弁論趣意書は、イギリスのコモン・ローにまで遡って、細部まで詳細に準備されていた。最高裁判所に出廷する機会も多くなり、「法律家の中の法律家」という評判をとった。
鉄鋼王カーネギーの恩返し
鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835年-1919年)はスコットランドで生まれ、1848年に両親とともにアメリカに移住した。最初は、工場で作業員として働いていた。その後、電信会社で電報配達の仕事についた。
彼は働き者で、仕事熱心だった。当時の普通のやり方は、受信したモールス信号を紙テープに刻み、そのテープを解読するということだったのだが、カーネギーはモールス信号を直接に耳で聞き分ける特技を習得し、電信技士に昇格した。
本を買うこともできず、図書館も普及していなかった。ところが、近くに住んでいた篤志家が、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人蔵書を開放してくれた。カーネギーはそこに通って読書好きになった。
1870年代にピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。この事業は大成功し、1890年代には、同社が世界最大で最高収益の会社となった。
カーネギーは、引退後の人生を慈善活動に捧げ、教育、科学研究などに多額の寄付をした。中でも、公共図書館の設置に力を入れた。全部で2509もの図書館を建設したが、それは、少年時代に利用できた個人図書館への恩返しだったのかもしれない。
本の購入はコチラから
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
本書の「はじめに」「目次」「第1章」「第2章」を全文公開中です。