![アンコールワット](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/18993067/rectangle_large_type_2_eb32587167b0eb77ea9c46ecb7ca6268.jpeg?width=800)
世紀の落書き(1)~巡礼・・・
これは386回目。いまから388年前、命がけの旅路(巡礼)を貫き、アンコールワットに落書きをしてきた男がいます。旧松浦藩士の森本一房です。
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落書きというのは、やはりいただけない。
欧州や日本のように、歴史的な文化遺産が多いところでは、建造物などにいたずら半分で落書きをする事件が後を絶たない。
とくに日本では、どこぞの国々(たいていは二つの国だが)からやってきて、わざわざ悪意に満ちた落書きをしていくので、厄介だ。
いずれにせよ、落書きというのはよくない。
が、命がけの落書きというものも、あるのだ。
森本一房は生年不詳。今では、アンコール・ワットの仏教寺院遺跡に落書(らくしょ)を遺した人物として知られる。
ご存知アンコール・ワットは、カンボジアで12世紀前半に建立されたヒンドゥー教寺院だ。敷地面積は東京ドーム15個分という。後に、仏教寺院に成り代わったが、すでに当時のカンボジア(安南)では王朝衰退しており、アンコール・ワットも廃墟と化していた。
人工池に取り囲まれ、現在でもカンボジアでは最大の名跡であり、観光客も多い。
江戸時代初期のこの武士が遺した落書は、南北の十字回廊の交わる入り口近くの右側の柱に記されている。墨書である。
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寛永九年正月初而此所来
生国日本/肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫/一房
御堂心為千里之海上渡
一念/之儀念生々世々娑婆寿生之思清者也為
其仏像四躰立奉者也
〈寛永九年正月初めてここに来る/生国は日本/肥州の住人 藤原朝臣森本右近太夫一房/御堂を志し数千里の海上を渡り/一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために/ここに仏四体を奉るものなり〉
摂州津池田之住人森本儀太夫
右実名一吉善魂道仙士為娑婆
是書物也
尾州之国名谷之都後室其
老母亡魂明信大姉為後世是
書物也
(父・儀太夫の現世の長寿と、亡母の供養のために、これを記す)
寛永九年正月丗日
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この落書きを残した侍・森本一房は、旧松浦藩士。彼がアンコール・ワットを訪れたのは1632年。この時期は徳川幕藩体制がようやく整いだした段階で、まだ鎖国は始まっていなかった。
当時、カンボジアは「南天竺」と呼ばれ、仏教の聖地「祇園精舎」があると信じられていた。とんだ誤解であったが、それで良いのだ。インドではとうに仏教は消滅しており、小乗仏教が残っていたのは東南アジアだけだったのだから。
森本一房の父・一久(儀太夫)は、加藤清正を支えた十六将の一人で、朝鮮出兵にも参加しており、勇名を馳せ、秀吉から賞賛された経緯の持ち主だ。
次男の一房は、加藤家を辞して肥前・松浦藩に仕えていた。主君清正が死し、混乱する家臣団に嫌気がさして肥前国の松浦氏に仕えたらしい。
松浦氏は領内に平戸を持ち、国際的な貿易港だったこともあり、一房もまた朱印船に乗ることができたと推測されるようだ。
熱心な仏教徒だった一房は、一念発起したのかカンボジアを目指した。誤解とはいえ、「聖地巡礼」である。今と違い、羅針盤もなかった日本の朱印船である。一か八かの命がけの壮挙だ。
万感の思いを込めて記した墨書は、当世の落書きとは到底意味も重みも違う。
一房は無事日本へ帰国するが、直後に始まる「鎖国」政策の一環として、日本人の東南アジア方面との往来も禁止された。
それもあってか、幸いにも巡礼から帰還することができた後には、名を変え、安南への巡礼のことも隠し、歴史からフェイドアウトしていった。
帰国後、松浦藩を辞した一房は、父の生誕地である京都の山崎に転居したことが判明している。
1674年に京都で亡くなっており、父とともに京都・乗願寺に墓がある。
落書きといえば落書きだが、それは命がけの巡礼の先に記した、得度(とくど)の証(あかし)にほかならなかった。
388年前、そんな日本人がいたのである。
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