月夜のロードサイクル
心がふっと軽くなったような気がした。
そう思ったのは、わたしの身体が夜風を切ったせいだ。
山道に差し掛かる一歩手前の、畦道。わたしは一人、夜道を自転車で漕いでいた。特にあてがあるわけでもない。単なる逃避。
受験勉強で頭が疲れたのだ。パンク寸前の頭を抱えて、わたしは家をこっそり窓から抜け出した。
もう家族は寝静まっている。
二階の屋根を静かに降り、自転車を引っ張り出し――はじめての夜遊び。夜遊びと言っても、何もない田舎。あてもなく、夜道を漕ぎ回るしかない。けれど、わたしはそれでよかった。
志望校にはもう少しで到達できる。その手ごたえはある。でも、先の見えない不安が常に付きまとっている。不況なのも肌で感じている。夢があるわけでもない、今のところは。
だからこそ、頭が破裂寸前なのかもしれない。
高校受験に、わたしは目的を見出していない。ビーズのアクセサリとかを作るのは好きだけど、その勉強がしたいわけでもない。漠然と、公立校を目指しているだけだ。
「ダメダメ」
声に出して、ネガティブな思考を中断する。ポーチからイヤホンを引っ張り出して、プレーヤーを操作する。
流れてくるのは、軽やかな曲だ。ネットから拾ってきた、素人が作った曲。派手でもないが、心が軽くなるようなこの曲に、わたしは惹かれたのだ。
二分にも満たない曲をループ設定にし、わたしはペダルを漕ぐ。
蹴りつけると言ってもいいだろう。
もうすぐ畦道も終わる。
抜ける寸前、前から犬を連れたおばさんが歩いてきた。夜中でも散歩をする人はいるらしい。けれど、見たことのない顔だった。この辺りの住人の顔は、ほとんど覚えている。それほど狭い地域なのだ、田舎というのは。
「あら、女の子がこんな夜中に一人?」
おばさんは足を止め、少し訝しげに眉をひそめた。無理もない。
「あ、こんばんは」
足を止められたら停まらないわけにはいかない。自転車から降りる。おばさんの連れている犬が息を荒立て、わたしの足下でじゃれる。わたしは思わず、足がすくんでしまった。
犬は苦手なのだ。
「少し夜風に当たりたくて」
「そう、夜の山道は出るらしいわよ」
おばさんはふふふ、と意味深げに笑う。わたしはどう返していいかわからないものだから、「そうですか」と言うだけ。「何が出るんですか?」などと聞かずともわかる。
頭を下げ、再び自転車にまたがる。おばさんと犬も、夜の闇に消えていった。
携帯電話の時計を見れば、もうすぐ一時を回る頃合。目的の二時には程遠い。あてもない自転車の小旅行だが、目的がないわけではなかった。
噂では、この先の山道で聞けるはず。
だからおばさんの言ったことは間違いないのだ。
山道が最も確率高いだけの話。イヤホンを耳にはめ、再びあの曲を流す。山道の傾斜はきつい。運動不足のわたしの体力をがんがん削っていく。
アスファルトの曲がりくねった道をひたすら漕ぎ、夜景の見える中腹辺りで自転車を止める。
そばには寂しく自動販売機が置いてあった。
渇きを覚えて、スポーツ飲料を買う。それを飲んだら、ようやく人心地着いた。
夏が終わった途端に冷え込んだせいで、少し寒い。カーディガンを持ってきておいて良かった。
イヤホンを外し、外の音に耳を澄ませる。山の中は色んな音に満ちている。
ここでは、静寂ですら喧騒に変わる。
耳が痛くなるほどの静けさ。ひっそりと様々なものが鳴いている。それは虫だったり、風だったり。
目当ての音は、まだ聞こえてこない。今日はダメなのかもしれない。
時計を見る。一時半に差し掛かる頃合だった。
そろそろ戻らなければ、明日に差し支えてしまう。わたしは後ろ髪を引かれながらも、自転車にまたがる。
漕ぎ出す前に、目を閉じ、耳を澄ます。
ああ、みんな生きている。夜の闇に紛れて、みんな生きている。静けさに満ちた世界でも、確かにみんな生きているのだ。
それは、わたしも例外じゃない。
そう考えると、少し嬉しくなる。
軽くなった身体で風を受け、わたしは坂道を下る。緩やかなカーブを曲がり、もうすぐで畦道へ。
行きはかなり疲れる道だったのに、帰りはとても楽に思える。自転車のかごで、ペットボトルが跳ねる。
「あ」とわたしは声を漏らした。
さっきのおばさんが前から歩いてきた。今度は、にっこりと笑ったようだった。
会釈を返し、少し顔を上げた瞬間に。
消えたおばさんの代わりに何かの遠吠えが聞こえた。
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