娘が語る母の物語
今回、西先生が書かれているnoteを拝読し、#わたしたちの人生会議 というテーマの募集をみて「私の母のことを伝えたいな」と思いこのnoteを書きました。
母は今も元気でいることを先にお伝えしますね!
母は准看護師で、その娘の私も看護師になりました(今は病気のため働けなくなりましたが)。なかなかの似た者母娘です。
看護師がふたりもいる家族ですし、会話の多い家族でもありましたから
臓器移植のニュースを見れば「臓器移植したいか・したくないか」という話を家族ですることはありましたが、”なんとなくうちの家族はこう思ってる”くらいの認識です。実際に家族が臓器提供の意思を示すものを持っているかまでは確認したことはありません。
こういった話に興味がなく、みな元気な家族はそんな話はなかなかしないだろうなと思います。医療関係者がいてもこんな感じなのですから。
今回なぜ私が「母のことを伝えたいな」と思ったかというと、母の人生は人生会議の連続だなと思うからです。
【母はこんな人】
母は結婚するまでの数年を産婦人科の病院で働き、結婚を機に専業主婦となりました。子供の教育費のために結婚10数年目から再度看護師として働き始めます。卒後2-3年働き10年以上のブランクがあっての再就職はとても大変だったと思います。
看護師は働く科にあわせて専門的なものを勉強し直す必要がありますし、10年間の医療の変化はとても大きいものです。輸液ポンプやシリンジポンプ、人工呼吸器、初めて扱うものもたくさんあります。
子供の頃から体が弱く、医師に運動制限を指示されていたような人です。私が小さかった頃には母が家で倒れ父に運ばれる姿を見つめていた記憶もあります。働き始めて疲労困憊していましたが、子供たちを進学させるためにと働いてくれていました。
そんな母には子育てに対する信念がありました。
”一人でもやっていけるように自立できるよう育てる”
この信念のもと、私たち兄弟は子供の頃から家事を手伝い、小学校にあがると玄関掃除やお米とぎ、お皿洗いを当番制でしていました。
遠足などお弁当が必要なときは母に指示をもらいながら、水筒にお茶の準備、おにぎりをつくる、出来たお弁当を包むというようなことから始め、
小学校4年生頃には、クラブ活動でお弁当が必要なときは自分で用意できるまでなりました。これは母が専業主婦の頃からしてきたことです。
母は自分の体が弱かったので子供のこれからを案じていたのだと思います。そうして子供たちは順々に自分の事は自分で出来るようになり、私は進学で実家を離れて暮らすようになった頃、母は人生会議に向き合っていくことになります。
【祖父母(母方)のこと】
〈祖父の病気の発覚〉
母方の祖父母は私の実家、母宅から車でおよそ2時間離れたところに暮らしており、高齢者のための大学に通い、祖父は仲間と囲碁や将棋、俳句・短歌を楽しみ、祖母もダンスや書道を楽しんでいました。祖父母は結婚50周年を迎え、私の父母からプレゼントされた道具を持ち仲間と連だってよくパークゴルフ場に行き楽しんでいました。
ふたり仲良く第二の人生を楽しんでいるという様子でした。
そんな頃、とても我慢強い祖父が「脚が痛む」と言うようになります。
祖父が「痛い」と言うのはただ事ではないと、祖母は看護師の母に相談し地元の整形外科を受診しました。
レントゲンをとり、特に問題なさそうだと湿布を出してもらい様子を見ていましたが、痛みが強くなり、傍から見た祖母にも祖父が痛がっているのがわかるほどになります。
祖父母は余程のことがないと病院に行かないという人達でした。そんな病院慣れしていない高齢者夫婦です。祖父母だけで受診させるには心許なく、母も同行し総合病院へ受診しました。そして祖父は入院し、骨のがんと診断。かなり進行したがんは既に末期で余命数カ月と告げられます。もう自宅には帰れないだろうといわれたのでした。
当時は本人にがんと告げるか、余命を伝えるかは家族の判断に委ねられていました。
祖母の判断は「病名も余命も告げない」。
それは母にも相談して決めていました。
「祖父は気持ちの弱い人だから言ってしまうとガタガタっと悪くなってしまうかもしれない」祖母はそう不安に感じていたのです。
入院生活を続けていた祖父がぽつりと「死ぬんなら家で死にたいな」と言ったそうです。余命は告げていませんでしたが自分の体調から察していたのでしょう。
〈その後母がとった行動〉
「家で死にたいといというならそうさせてあげよう」
それが母の結論でした。本人がしたいようにというのが大抵の母の行動原則です。
今は在宅で看取る事が少しずつ一般化されてきましたが、当日(祖父が亡くなってもう17回忌が過ぎました)まだ在宅での看取りは一般的ではありませんでした。
在宅診療の医師探し、訪問介護事業所探し、祖母の負担を軽くするための配食サービスの利用、できる限りのサービスを探し手続きを進めていきました。在宅診療してくださる医師を見つけ、在宅療養患者に麻薬の処方について相談し、看取りを目的とした在宅看護が初めてという事業所で細かな打ち合わせをしていきます。そして間もなく祖父は自宅に帰ってくることができました。
これを進めるにあたって、母がどれだけのことをしていたか書ききれるものではありません。母のバイタリティは計り知れません。
〈自宅での祖父の療養〉
祖父は穏やかに過ごす事ができていたと思います。
最期の時が近づくにつれ意識が昏迷する事も増えましたが、孫が会いに行くとしゃんとして話をしていました。とても不思議なものですが、そのくらい家族との関わりは祖父を支えていたと思います。
祖父は身体がどんなにつらくても排泄の介助をとても嫌がりました。ポータブルトイレも用意していましたが、結局一度も使用することはなく、最期の日も祖父は祖母に支えられてトイレに行ったのでした。
祖父の「家で死にたいな」という意思を母が支えて叶えた一例です。母が看護師だから特殊な例だと言われてしまえばそれまでですが、たくさんの協力があったからこそ実現できました。
自宅で家族に見守られ、祖父は穏やかな気持ちで最期を迎えられたのではないかと思います。とても穏やかなお顔でした。
〈祖母(母の母)のこと〉
祖父が亡くなった後、しばらく祖母は一人で暮らしていましたが、元々心臓が悪く健康に不安があったことや祖母に認知症の症状が出てきた事から、母が祖母を引き取ることになりました。
祖母は時々心臓の発作や小さな脳梗塞で意識をなくして救急車で搬送されるといった状態でした(その度に母が出動)が、父母と一緒に旅行したり、晩年はデイサービスに通うなど、充実した日々を送っていたと思います。
そんな祖母の体調の異常は急に現れました。
父母と旅行に行き、美味しいものを満腹になるまで食べて帰ってきた翌日。急に吐いたのでした。母は消化されていない食べ物の状態を見て直ぐに祖母を病院へ連れて行きました。
検査の結果は進行したすい臓がんでした。入院し療養を続けていましたが、そろそろ最期が近いかなという頃、母は自宅で祖母を看取ろうと調整していました。しかし、自宅へ帰る予定の前日に病院で息を引き取ります。母は自宅で看取れなかったことにショックを受けていましたが、「娘に面倒かけないようにっていうおばあちゃんの思いやりかもしれないね」と何度も自分に言い聞かせていました。
〈祖母と母の最期の約束〉
祖母は病気が分かる前から最期に何を着たいかということを母と話していました。着道楽の祖母はたくさんの着物を持っていました。その手入れの時に母娘でそんな話をしていたそうです。
祖母はちゃんと母に着たい着物を指定し、きれいにクリーニングし保存していました。それはぱりっと格好の良い大島の泥染めで、祖母らしいなと思う着物でした。その着物に着替えきれいにしてもらった祖母はとても可愛らしく、眠っているように見えました。家族は交代でずっとそば付き添っていました。
【母の特殊なめぐり合わせ】
母は両親をこの様に見送っているのですが、どういうめぐり合わせか、ひとのお世話をする機会が多くある人です。父の母(義母)も看取り、縁のあった高齢で持病がある身寄りのない方のお世話で、公証役場で手続きをし葬儀まで見届けるということもしています。
家族や周りの人が亡くなるときにはいろいろなことがあるなぁと思いますが、これは祖父母のように高齢になってから病気になり亡くなるケースだけではありません。病気やけがをするのは高齢者に限ったことではなく、「人生これから」というときでも病気やけがは容赦なく身に降りかかるものです。それは私たち家族も同様でした。
〈父のこと〉
祖父の看取りから間もなく、父は大きな事故に巻き込まれます。頭蓋骨骨折、脳挫傷、意識不明の重体。数年後に脳挫傷が見つかり、現在は高次脳機能障害があります。大きな事故でしたので、警察や医師からその場で亡くなっていてもおかしくなかったと言われています。
幸い父は今日も元気です。
母と笑い合いながらテレビを見ていて、楽しげな笑い声が聞こえます。一人で映画を見に行ったりもします。
高次脳機能障害というのはとても難しく、症状も個人差の大きい障害です。今のように安定した生活ができるようになるまで何年もかかりました。父本人も大変な思いをしたでしょうし、それを支えてきた母もどんなに大変だったかと思います。事故の関係で裁判もしていました。諸々の手続きなどはやはり母がすべて対応してきました。
〈私のこと〉
祖母を見送ったとき、私は体調を大きく崩し仕事を休職している最中でした。その時から今現在に至るまで、慢性疲労症候群(ME/CFS)という病気の症状のためほとんどの時間を横になって過ごしています。一人で頭すら洗えず支援を受けています。
母に身体を洗ってもらいながら「苦労ばかりかけてごめんね、娘の介護までさせて」と言ったことがあります。
母は「親が子供の面倒をみれるのも親孝行だ」と言って笑いました。
〈これから〉
この先はどうだろうかと私は考えます。
それは「母」だけの事でなく娘である「自分」もその中心人物だからです。私は親を看てあげられるのか(まず無理だとは思っていますが)、兄弟と協力できるのか、父の障害はどうなるだろう、両親の健康状態と自分の健康状態の両方が影響し合います。
祖父母の看取りをみて、父や私が支援の必要な状況で今を生きている私は、「その時がいつ来るのか」「どのようにその時を迎えるのか」気が気ではありません。
私ができる唯一のことは、父や母とよく話をすることだけかなと思っています。兄弟とももっと話をしなければいけないなとも思います。
今まで「会議を開こう」といって家族会議をしたことはありません。「祖父が嫌なことはできるだけ避けて、祖母との時間、子供や孫達との時間を大切にする」「祖父の尊厳を守る」この2点を軸に母は関わってきました。祖母は祖父を見送っていましたから、母とは自然に「亡くなった時はこの着物を着たい」と着物の手入れをしながら話したりもできました。
祖父母はふたりとも、がんと診断されて数カ月で亡くなっています。
亡くなるまでに少しでも意思疎通ができる期間があったからこそ、意思を聞くとこができました。残される家族にとってはこの意思表明が原動力になります。母は祖父母の意向をくみ動いたのです。
【会議はずっと続く】
私が母を見て思うことは、【人生会議は親や伴侶、子供から孫に至るまで連綿と繋がっている】ということです。人が生きて最期を迎えるまで、たくさんの人と関わらざるを得ません。誰しもがそうでしょう。どう最期を迎えるかを考えることは、高齢のどこか知らない病気の誰かの問題ではなく、生きている自分自身の問題で、人と関わりのあるすべての人に必要なことだと思うのです。
その中で特に大事だと私が感じていることは「自分はどう生きたいかを考えること」。
自分自身が「どう生きたいか、どう最期を迎えたいか」がわからなければ誰かに伝えることができません。そして言葉にしなければ誰にも伝わることはありません。
「これは嫌だな」「こうだといいな」
その気持ちを身近な人に伝え続けることが大切だと思います。
祖父が「家で死にたいな」と母に言わなければ在宅での看取りはできませんでした。この一言が何よりとても重要でした。
生きていれば必ず最期はやってきますが、去る者も残される者も辛い記憶が少なく、亡くなるときにたくさんの問題で頭を一杯にせず、思い出話ができるようなお見送りができるといいなと思います。
そして叶うならば
母が一番悲しむであろう、子供の私たちが先立つ事がないよう、身体の回復を待ちながら、両親のこれからと兄弟とのこれからについて、みんなで少しずつ考えていけたらいいなと思います。急にその時が訪れませんように。
苦労の多い母が今後も笑って過ごせる時間がたくさんありますように。
お世話をしてもらいながら娘はそう願っています。
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