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【書評】綿矢りさ『手のひらの京』 慣れって怖い


 ひとり暮らしを始めてわかることは多いなあ、としみじみ思う。
 親元で暮らしていると、自分が狭い殻の中にいることは、自覚しにくいものだ。

 本作は、京都で実家暮らしをしている三姉妹の、末っ子である凛が主人公となっている。長女の綾香、次女の羽衣も実家で暮らしていて、冒頭は家族の夕食シーンから始まるのだが、それはそれは温かい家族であることが明示される。

 「けれど、このままずっと京都で家族で暮らしていていいのだろうか」
 大学院生の凛は、そんな日常に疑問を感じ始めていた。

p.28
今夜はどんな夢を見るのだろう。子供のころから使い続けている、抱き抱えるのにもちょうど良いくらいの大きな枕を、一度叩いて形を膨らませてから、凛は寝転がった。目をつむって耳をすませば、綾香がお風呂上りにドライヤーを使っている音が聞こえる。ここにずっと住み続けたら、私は三十を過ぎても、四十を過ぎても“子ども部屋”にいることになる。飛び出すきっかけは自分で作るしかない。
p.73
「凛って生まれも育ちも京都かいね?」
「うん、引っ越したこともない。その事実がときどき怖くなるねん。世界はもっともっと広いのに、私はなんにも知らないまま小さく守られたところで一生を過ごすのかなと思うと、息がつまりそうになる。家族にしてもそう。上の姉もずっと実家暮らしで、みんなで和気あいあいと過ごすのはそれは楽しいけど、一人暮らしもせずにこのまま京都に住んでる人と結婚してずっとこの町で暮らすとなると、いいのかなって思う」
 p.162
 私はここが好きだけど、いつか出て行かなきゃならない。山の向こうにも自分の世界が見つけられると確信できないと、いつか息が詰まってしまう。鴨川の冷たい水に長細い脚一本を浸けて立つ白さぎを見つめていると、涙がこぼれた。
 好き嫌いじゃない。旅立つ時が来るんだ。これは自分ひとりの問題なんだ。

 凛は自覚的に決断し、住み慣れた京都を離れて、縁もゆかりもない、東京という地に行こうとしている。

 なあなあで生きるのは楽なんだけど、ふと自分を見つめ直したときに、自信を持って自分を語れないのですよね。
 自分の場合、第一志望ではない会社に入社して早数年経ちます。
 入社時は「こんな会社辞めてやる!」
 なんて思っていたのですが、その時の牙は今どこにあるのやら。

 決断するのは勇気がいるし、今まで培ってきたものが無に帰す可能性だってある。けれど、自分の心に正直に生きなきゃだめだな、と勇気づけられました。



※おまけ(気にいった文章)
 会話文が、京都弁そのままのところが多いのが個人的に良かった。

p.33
 結局会社も大学のサークルと構造はあまり変わらない、(中略)。口のよく回るハッタリ上手が上位に君臨していて、その他大勢は軽薄なミーハーだ。しかしすてたものじゃないところもある。そんな表面的な権力争いとは関係なく、本人の実力への審査は水面下で日々行われて、本当に優秀な人間がゆっくりと頭角を現し始める。長い時間をかけてハッタリだけの人間は淘汰されてゆく。
p.69
 鴨川は美しいが夜はやはり恐ろしい。長く近くで暮らしていると、かつて合戦場であり、死体置き場であり、処刑場であった歴史を、ふとした瞬間に肌で感じ、戦慄する。どんなに賑やかな祭りの夜でも、この都は古い歴史を煮詰めた暗闇を隅の空間に作り出して、現代の人間をあっちの世界に引き摺り込もうと待ちかまえている。 
p.154
 「どういうのがいい男なの?」
 「ちゃんと働けるとか周りの人と仲良くできるとかの人生の基礎がしっかりしてる上で、性格に致命的なひねくれや歪みがない奴や。この基本を満たしてるのを一番の条件にして、そのあと自分の好みを加味してから男を選び。間違っても自分の好みだけで選んだらあかんで。冷静な目も必要。色んな人と付き合って私が学んだんはコレやわ」



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