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義憤に駆られて一歩踏み出した先は、自分の格好悪さを知ることだった

遊びに行った場所で、泣いているこどもを見つけた。

おりしもその前日、迷子を小学生が助けたという記事を見たばかり。周りの大人は見向きもしない中、小学生らは手を差し伸べたという。

当たり前のことを当たり前に出来る素晴らしさ。
人として、失ってはいけない何か。

義憤のようなものが湧き上がってくる。でもそれが平日で仕事に行くところだったりしたら、自分もまたごめんねと思いながらも無関心を貫いたかもしれない。そう想像出来るのが嫌だった。
だから、そうじゃないところを自分で確かめたかったのかもしれない。

自分のこどもの手を引きながら、恐る恐る泣いているこどもに近づいた。
周りは誰も声をかけようとしない。勇気を出さなきゃ。だってこの年のこどもにとって親と離れることは、世界の終わりのような絶望感を感じているはず。

でも、実際泣いている子にはなかなか声をかけられない。
もしかして近くに親がいたりして? なんて浅ましい期待とともに周囲を見回しても見つからない。

これは自分がやるしかない。
勇気を出して声をかけてみようとして、そういえばこういうときなんて声かけたらいいんだろうと頭が一瞬フリーズした。情けない。
「お母さんいないの?」
なんて見ればわかるでしょ。しかも聞いたところでこの年齢の泣いているこどもがまともに答えられるかは不明だ。

しかし悩んでいたって仕方がない。とりあえず、サービスセンターみたいなところに連れて行って、アナウンスしてもらうのが常套か。
そうやってこの先の筋道を整理しながら話し掛けたところでお父さんらしき人が登場。
…助かった。

早々にその場から逃げ出した自分の頭の中は、後悔でいっぱいだった。こどもの相手なんて、自分のこどもの相手で慣れている。そんなのは詭弁に過ぎなかった。
本当は泣いているこどもを見つければさっと近寄り、然るべき場所に連れて行くなどスムーズに対処出来ると思っていた。
たったその程度のこと、慣れないそれがこんなにも難しく、スマートに出来ないなんて。本当に格好悪い。

…でも。

小さな娘の手を握り締めながら思う。

格好悪いながらも勇気を出せた自分をちょっぴり褒めてあげたい。千里の道も一歩から。次はもっと堂々と手を差し出せるように。

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