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パリ人に用事と余白の関係を問い直された/有給でパリに2週間住んでみて得た身体感覚

こんにちは。MIMIGURIの德田です。

私は今年の夏、妻とパリに2週間、ウィーンとプラハ合わせて合計3週間の有給休暇をもらい、海外滞在をして来ました。

こんなにまとめて有給を取るのも初めてだし、それだけ長期間の海外滞在も人生で初めてでした。折角なので、「全く違う価値観・文化に、いつもの旅行よりも長めに滞在してみる、という冒険」の中で得られた気づき、自分の中の身体感覚を言葉にしてみたいと思います。


1. 自分の時間で生きているパリの人


ヨーロッパ、特にパリの街並みで目にしたのは、人々が「自分の時間で生きている」という感覚でした。

例えば、平日の昼間、街中には驚くほど多くの人がランニングをしていました。セーヌ川沿い、街の中などどこでも、常に誰かが走っています。それも一人や二人じゃありません。結構な人たちが、平日の昼間も至る所でランニングしてます。

ほんとにいつの時間・曜日でも、どこでも誰かが走ってる

また、どの曜日、どの時間帯でもカフェテラスには人が溢れかえってきて、おしゃべりしたり、新聞を読んだりしています。
仕事の打ち合わせには見えない。ので多分プライベート?なんでしょう。


どこにでもカフェやテラスがあり、常にわりと混んでいる

電車で移動しているときにも、平日にも関わらず電車内でスーツ姿を見たことはほぼありませんでした。
服装は全員がカジュアルで統一感がないため、日本のように「あ、今日はスーツの人が少ないから土日だよな」みたいなことはなく、休日か平日かすら判断がつきません。

この光景を見て感じたのは「外からの都合で、自分の生活のかたちを変えない」という、パリの人たちが自然と持ちあわせているであろう価値観でした。

自分が普段日本での生活で強固に持ってしまっている、「用事」や「効率」に支配された時間の捉え方とは、非常に遠いところにある彼らの姿。

一人ひとりが自らの生活全体を意志をもってつくり上げている姿に、大事にしていたはずの「自分の時間で生きる」ということがいかにまだまだできていないかを改めて実感させられました。


2. 「用事」と「余白」の関係性の問い直し


私は昨年、『限りある時間の使い方』という書籍を読み、非常に心に残った内容がいくつもありました。

僕達の日常は、どうでもいいタスクをひたすら片付ける日々だ。いつか邪魔な仕事をすべて終えたら、そのときこそ大事なことができるはずだ。そう思って頑張るけれど、本当にそこに近づけるのだろうかという不安もある。
(中略)
「仕事の量は、完成のために利用可能な時間をすべて満たすまで膨張する」という有名な法則がある。
どんなタスクも、時間があるだけ勝手にふくらんでいくものなのだ。正確には、「やるべきこと」の定義がどんどん広がっていくといってもいい。

オリバー・バークマン(2022)『限りある時間の使い方』

「仕事はイコール人生ではない。どう生きたいか、どう生きれば後悔は少ないかを考えて、いつかやりたいと思っていることを、先延ばしにせず今やろう」

常日頃からそう考えるようにし、妻ともその価値観を共有し、生きていたつもりでした。
が、パリの人たちの生きる姿を感じて、自分はまだまだ「自分以外の都合」に合わせて生きているのだと痛感しました。

日本にいるときの自分は、日常生活の「やるべき用事」をいかに効率的に片付けるかに集中しがちです。
効率化の目的は、「残された時間」を増やし、それを自由に使う余白として確保することにあります。
ですが、パリで見た人々の生活は、まるで反対のアプローチに感じました。

気がつくと、やったほうがいいことを際限なく敷き詰めて、
足りない余白ばかりを見ている

彼らのなかには、用事の前に、「こう生きるのだ」という意志に基づいた、生活のデザインが先にある気がします。
「仕事があるから昼にランニングできない」のではなく、「昼にランニングするのが気持ちいいから、仕事の方の都合をつける」ように、
自分の生活のグランドデザインに合わせて、むしろ「用事」側の形を変えているように、私には見えました。

多分、彼らは常に全体に焦点を当てている。
そして「用事」の方の形を変えている気がする。

パリの人たちは、自由に使える余白がどれぐらいあるか、で考えていない。「こう生きるのである」というグランドデザインが、まず先にある。
「生活すべてを自分のもの」として、一日の全てを味わいながら生きている。

そう感じさせられた滞在でした。


3. やりたいことを「用事化」することでこぼれ落ちるものとは?


「これ、自分の生活に取り入れたい!」「習慣にしたい!」ということが増えていくのは、素敵なことだと思います。
ただその取り入れる行為が、「仕事をうまく(=生産的に)やる」ことに慣れすぎている私は、知らず知らずのうちに以下のようなステップを踏んでしまっていました。

  1. やったこと方がいいことを決める

  2. 所用時間を決める

  3. いつやるかを決めてカレンダーに登録する

  4. その用事をいかに効率的にできるかを考え始める

  5. いつしか用事を「早く終わらせること」が目的化していく

この5まで進んだとき、その用事をしているときの私は、いつのまにか無心になってしまっています。
本来それは純粋に「たのしそうだから、やりたいから」やっていたのに、いつの間にか「早くこなす」ことが目的になってしまう。なんならちょっとストレスがある日は、苦痛に感じるときすらもあったりする。

日常のあらゆる用事の中に眠っている満足感・充実感を存分に感じていくことこそが、人生の目的のはずなのに、そこからどんどん目が離れていく。
効率化を目指すことで、幸福の身体感覚が遠ざかっていく。
そんな矛盾を強烈に感じました。

やりたいと思って始めたことなのに
いつの間にか「たましい」が抜け落ちていく

効率を重要にする考えで一日を生きるとき、私たちは「やるべきこと」を基準に日々を構築し、その隙間に余白を求めます。
ですが、そのアプローチは、結局のところ「やるべきこと」を中心に据え続ける枠組みからは逃れられていません。パリの人たちと自分を比較して感じたのは、そうした考えそのものが逆転されているでした。

個々人がどのように時間を捉え、生活を構成するかは、文化や価値観の反映でもあるため、これが正解というものがあるわけではありません。
ただ、パリの街で見た「自分の時間で生きる」という感覚は、効率や生産性を重視する価値観では測りきれない豊かさだな、と感じました。

僕たちは、時間をあるがままに体験すること(時間であること、といってもいい)をやめて、「今」という時間を未来のゴールにたどり着くための手段に変えてしまった。

オリバー・バークマン(2022)『限りある時間の使い方』

日々やることから「たましい」をこぼれ落とさずに、ひとつひとつ味わいながら生きるためにはどうすればいいか。
答えはまだ見つからないので、このための冒険と学習は自分だけじゃなく、周りの仲間と一緒にしていきたいな、と思っています。


MIMIGURIアドベントカレンダー、明日の投稿は「ケアと触発の場づくり」をするファシリテーターこと、臼井さんです🤲

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