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参与観察するということ――ちっぽけな文化人類学ファンの視点から――

はじめに

「文化人類学って何?」「文化人類学について教えて!」
最近はそんな声をかけてくれる機会に多々恵まれて、私が学部時代に勉強していたことをふと思いだすことも多くなった。

学部で真面目に取り組んできたとはいえ、学者でもなく専門家でもなく、ただの「文化人類学ファン」だから、「文化人類学とは」を語ることが許される立場ではない…と考えていた。

だけど、今の私の軸には、文化人類学のエッセンスが脈々と流れている。であれば、私が取り組んできた研究をちょこっと紹介することで、文化人類学を紹介できるだけでなく、私のことも知ってもらえるかも、と思いタイピングを進めている。

最後は、卒論の結論を書くことなく、ただただ何となくクロージングさせてもらった。まだ私の中で、「文化人類学とは」が語れないから。長々となってオチが見えない私の経験の一端を覗いてもらえたら嬉しい。

文化人類学と私

文化人類学との出会いは、確か大学2年生の秋だったように思う。
後のゼミの指導教官が担当している必修授業で、文化人類学という学問に出会った。

「人類学」と言っても大きく3つに分類される。

人類学=「人」についての研究領域
考古学・・・遺跡・遺物などを研究対象に人の在り方を研究する。つまり、今生きている人は非対象
自然人類学・・・人類を「生物」として研究する。例えば、生物学的な進化、変異、適応などなど
文化人類学・・・人類の「文化的・社会的側面」について研究する。
※これに「言語人類学」が④として分類されることも。

私が研究をしてきたのは③の人類学。
文化人類学が調理法だとすると、「文化的・社会的側面」が研究対象になるので、その材料は文化的・社会的なものであれば何でも良い

文化人類学は、何を目指すのか。
それは、「人類の『普遍性』と人類が様々な要因で生み出していく『独自性』を追求する」こと。

人類として●●は共通だよね。でも、この地域/このコミュニティ/この人には☆☆な独自性があるよね、ということを立ち上がらせる。

私の指導教官はオセアニアをフィールドに、現地の芸術について研究をしている。私が人類学者としても、女性としても尊敬する大好きな人だ。
(幾度となく私がメンタルブレイクし、そのたびに先生の研究室に入り浸った。そんな時も、常に寄り添う姿勢を絶やさず、優しく背中をおしてくれる人。)

私たちが在籍する学部には地域別のコースに分かれている。私のコースは「アジア・太平洋コース」。東アジアから東南アジア、南アジア、オーストラリア、ポリネシア、メラネシア、ミクロネシアの辺りを研究フィールドにする。

ゼミの同期もみんな面白かった。研究内容はこんな感じ。
・贈与@フィジー
・女性の社会的立場・役割@サモア
・外国人の居住@京都
・伝統衣服と身体性@インドネシア
・国王と国家・国民の関係性@タイ
・インフォーマルセクター(トゥクトゥクドライバー)@カンボジア
・先住民社会@アイヌ/マオリ
・フラダンスと現代社会@ハワイ

ほかにも言語人類学、社会人類学、色々な研究が進んでいた。

同期の留学を送別した際、撮影した1枚(2018年)

因みに私の研究キーワードは「都市」「多文化共生」「イスラーム」。
研究フィールドに選んだのはマレーシア・クアラルンプールだった。
私はよく、自分の研究を「都市人類学」という分類にあてはめる。

文化人類学の特徴

・他者を研究対象とする

文化人類学で研究するのは、「他者」である。例えば、私が「POOLO3期のSlack文化」を読み解くのは、POOLO3期の一員である以上難しく、外部の者が研究することで意義が生まれる(理由は後述)。

・質的研究である

どちらかというと数量的にではなく、人の行動、発話など数値では表しにくい事柄を収集して解を出す。アンケートや形式ばったインタビューといったの手法は好まれず、偶発的に発生する会話が根拠になったりする。

・多面的にアプローチする

例えば、「インドネシアのガムラン(木琴のような伝統的な楽器)」を題材にするとき、その楽器が奏でる音楽だけでなく、歴史的背景、楽器の材質、どんな場面で演奏されるのか、誰が演奏するのか(演奏できる者の条件はあるか)、どのように継承されるか…などの情報を収集する。

・参与観察(≒フィールドワーク)が必須である

文化人類学を学ぶうえで避けては通れない「フィールドワーク」。なかでも、参与観察という手法が不可欠だ。「他者」のコミュニティに入り込み、そのコミュニティの独自性を見出しつつ、人類の普遍的な要素を明らかにしていく。コミュニティの独自性に気づくことは、コミュニティ外の者にしかできない。

先ほどの「POOLO3期のSlack文化」を研究するのは、これからPOOLO3期の外から来た人が、Slackに参入して、自分も投稿・リプライしながらSlackの動きをつぶさに見ていく、というイメージだろうか。

そんな私は、マレーシアで約1か月間参与観察を実施した。以下、私の参与観察での学びをご紹介。

研究テーマ

マレーシア・クアラルンプールのとある屋台街で、外国人労働者はどのようにしてコミュニティに溶け込み、「共生」しているのか。

事前視察

2018年7月。1週間という期間だけを決めて一人で初めてクアラルンプールに降り立った。実はこの時点でまだ「研究テーマ」が定まっておらず、クアラルンプールで多文化共生を研究できる場所を探していた。

とにかく焦ってはいたけど、うまーく入り込めそうな場所もないし、ただただマレーシア観光をするだけの日が続いた。モスクに毎日行って礼拝したり、中華系の方が営業するお花屋さんに張り込んだり、インド系の家族の葬儀?なんかの儀式に混ざってご飯もらう列に並ばされたり(笑)

マレーシア国立モスクにて。クアラルンプールでは日本人に見られたくなく、ヒジャブを購入してモスク以外でも着けて歩いていた。日本でもやってみたいと思いつつ、まだできていない。
中華系マレー人が経営するお店だけど、お客さんの層が民族ごとに分かれているわけではない。それが当たり前のマレーシア。職業はある程度、民族で分かれる傾向にあり。
インド系の方が集う謎の列に参加。頂いたごはんも美味しかった

観光地の一つである「セントラルマーケット」の脇に立ち並んでいた屋台。そこでムスリムの店員が食べ物を売っていて、お客さんはマレー系、インド系、中華系みんな来る。おまけに観光客にもどんどん商品を売っていて、その分け隔てない店員の対応に対して、純粋に「面白そう」と感じた。2、3日くらいその屋台に通い、店員さんと仲良くなって、男性の店長さんと連絡先を交換した。「また来るね」とだけ伝えて。

フィールドとなった夜の「カストゥリ・ウォーク」

フィールドワーク(FW)本番

再会

クアラルンプール国際空港に降り立って、真っ先に電車に乗り込んで慣れた足で電車を乗り換え、「Pasar Seni」駅に向かう。

"YUKINOOOOOO!"
と、男性の叫び声。
店長が顔を覚えていてくれて、「ここで調査したい」の言葉にあっさりOKを出す。

お店の運営陣は3人(本研究のインフォーマント)、パキスタン系の自称マレー人店主(2歳の娘さんがいる)、インドネシアから出稼ぎにきたおばあちゃんとおばさん。3人が交代で揚げ物を調理する。揚げ物の種類は日によるが常時10種類くらい。しょっぱいものから甘いものまであって、お客さんは朝昼晩、なんなら間食にも買っていく。

ご飯もおごってもらい、ひたすら揚げ物を食べ続けた1か月

「参与観察」というわけだから、先ずは自分にできることを探す。大してゴミが落ちているわけでもないが箒を持って掃き掃除をしてみる。

「Yukino, don't do anything. You are my guest.」
・・・そんなつもりでここにはいない。それは、相手もそう。まさか研究されているとは思わない。参与観察って大変だ。

日々の様子

私がフィールドワークで対象にした屋台は、朝の10時〜夜の9時半で営業している。閉店作業は夜10時を過ぎる日が多い。屋台を立ち上げるところから閉めるところまで、ずーーーと3人と一緒にいる(サムネイルの写真は、屋台側から見た屋台街の様子)。参与観察3日後からは、毎日店員同士で喧嘩が勃発。私が板挟みになり、これがFW中の一番のストレスだった。

掃き掃除だけでとどまらず、水を汲んできたり、レジ袋を広げて渡したり、できることを探した。お客さんはもちろん、屋台街にある別の店舗の店主さん、近くをパトロールする警察官、近所の人、店長の知り合いとの挨拶も自分から積極的に。シャイになっている時間はない。

とにかくこのコミュニティに溶け込むことに必死で、大学4年生の前期に週に1度、ゆるーく授業を履修して勉強していたインドネシア語(マレー語とほぼほぼ同じ)の習得度以上にめきめきとマレー語の腕を上げていった。

次第に、私と3人のうち誰かが店番、なんなら、私だけで店番、という日も出てきた。はじめのうちはお金にも触らせてくれなかったが、最後のお金の締め作業も手伝うようになった。

<お客さんからよく聞かれた質問>
"Apakah ini?"(これは何?)
→揚げ物なので、中身が分かりにくい(もちろん商品名のプレートなどはない)。商品名と原料をマレー語で答えるようにした。

"Berapa?"
→いくら?と聞かれるとマレー語で金額を伝える。私から"Berapa buah?" (buah=個・数詞)と聞くことも。数字はこれで鍛えられたが、計算を間違えて怒られたこともしばしば。

お客さんが来ない時は、それぞれの家族の話や、なぜ今ここで働いているかといった話をする。家族の写真を見せてくれたり、銀行残高までスマホのアプリで見せてくれたりした。それぞれに夢があって、そのためにお金を稼いでいる。もちろん、自分自身が生きるためにも。

あと、店長には私の姓が車の会社と同じ発音だというと、毎日それでいじられるようになった。"YUKINOOOO MAZDAAAA!"の通り中に響く大声を1日5回は聞いた。

コラム:逃亡

1日ずーっと彼らと一緒にいるから、自分の感情をコントロールできない時もあった。そんな時は(本当はずっと一緒にいるべきだったけど)、近くの国に逃亡した(笑)

フィリピン逃亡2
フィリピン・バタンガスでフィリピンに留学していたサークルの同期とダイビング。飛行機の都合で2日目はスキンダイビング

初めてお金を好きになった日

帰国まで後3日に迫った日、この日が最後のフルタイム労働の日と決めていた。最終日には、お客さんの3分の2は私が金銭授受までをするようになるまでになった。

接客自体は楽しいし、日本でも経験があった。けど、なかなか神経を使う仕事だと感じている。特に慣れない言語、慣れない慣習の中で接客するのは尚更。

最終日は比較的にお客さんが少なく、のんびり働くことができた。インフォーマントとも色んな話ができて、本当に楽しかった。

別れを惜しむように、店長が「マレーシアに残って、一緒にゲストハウスを開いて働こう!」って誘ってくれたりもした。

「ゆきのは日本語が話せるから、今後、日本で部品や電子機器を買い取って、マレーシアで売れば良いビジネスになる。」

やっぱりそうか、結局私の価値って「日本人」にあるのか。話をする中で、ちょっとさみしい思いもした。これまで良くしてもらったのも、歓迎してくれたのも、私が「日本人」だから、か。

私が関わる最後の閉店作業が終わって、いつものように売り上げ高を確認するオーナー。

マレーシアリンギットはカラフルな紙幣で、色と柄で金額が決まっている。そのうちの紫色や青色、高額な色の紙幣を私に手渡した。

私は「今日はこれだけ売り上げたの!すごいね!」と返す。

首を振る店長。

「これはゆきのに。ゆきのは本当によく頑張って働いてくれた。これだけではゆきのの働きには足りないと思うけど、受け取ってほしい。本当に感謝してるよ。」

私はお金を稼ぎにここに来たわけではないし、むしろ毎食ご飯を食べさせてもらって、ゲストハウスも安く紹介してもらい、至れり尽くせりのフィールドワークだったのに。

実は、最後の最後で金銭授受をミスして売り上げを少なくしてしまった。また、ちょっと前には、お客さんが私と意思疎通を図れなくて呆れて帰ることもあった。

マレーシア人の金銭感覚を理解し、色々な思いを持って働き続ける中、日本円で1万円に満たないこの紙幣たちが、私の手の中で存在感を強く醸し出していた。


店長からもらった「お給料」

ただ上手いように使えばいくらでも搾取できるような「日本人」だし、そう見られてると思ってた。

でも、お金という物質によってその「仮定」が覆されて、「Yukino Matsuda」を認めてもらえた。そんな気がして、これまでお金に対して悪いイメージしかなかったのに(笑)、初めてお金を好きになれた。

お金で幸せを感じられるんだなあと思った。あくまでも、お金自体に幸せを生み出せる訳ではなく、お金が手段となっただけだけれども。

参与観察とは

帰国後、自分が見て聞いたものからテーマを設定し、これまでに学識のある先人たちが発表してきた学説を調べ上げた。その学説たちを私の調査と紐づけていく作業を延々と続けた。

「新参者(=外国人労働者)がコミュニティ(=ここではあの屋台)で受け入れられるためにするべきこと」を立ち上がらせた。多分、あの屋台街を研究対象にして文字に残したのは、きっと今も私だけだろう。

私にとって参与観察は、「自分の当たり前を切り崩し、他者を受け入れる土壌をつくること」。このFWでの経験が、今の私の根幹を成している。


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