【小説】あなたの心を星にして
百貨店のイベントスペースで開催されている古本市。大学の帰りに、私はふらりとそこに立ち寄った。ただ外が暑くて暑くて、しばらく屋内に避難でもしていようか、というくらいの気持ちだった。
冷房の効いた会場は、本で埋め尽くされている。時代もジャンルもバラバラだ。比較的最近に発刊された小説もあれば和綴じの本もあり、あるいは古い雑誌のバックナンバーがまとめて売られている。本だけではない。箱に詰め込まれたレコードに洋画のポスター、往年の映画スターのブロマイド。会場をぐるりと一周して、せっかくだから何か買って帰ろうかと、ある本に目を留めた。ハードカバーの分厚い本。表紙も紙もすっかり茶色くなっていて、奥付を見たら百年も前に出版された本だった。本文にはずらりと旧字体が並んでいる。ある作家のエッセイを纏めた大正時代の書籍らしい。
端がぼろぼろになった頁をめくると、あるエッセイが目に入った。〈不可思議な夜〉と題されているそこに書かれていたのは、著者が夜の明けない世界に迷い込んだ、そんな話だ。そこは芝居小屋や店が立ち並ぶ歓楽街で、美女に案内されて、その歓楽街を巡ったのだという。なんだか説話みたいな話だ。
エッセイは「きつと私は夢でも見ていたのであらう。」と結ばれていた。私はその本を買って帰ることにした。
家に帰って、改めてその本を開いてみる。日本の大きな転換を目にした著者の経験が生き生きと、時にシビアな目線で以て活写された文章に私は夢中になった。何ページか読み進めていくうちに、するりと何かが落ちたことに気がつく。前の持ち主が栞を挟んだまま売りに出したのだろうか、私はその紙を拾い上げた。
「何、これ」
それは紙幣くらいの大きさをした和紙だった。菱形や五角形を丸で囲んだような奇妙な記号が並んでいる。大学の図書館で借りた日本語史の本に載っていた「神代文字」が頭をよぎる。しかしこの紙に書かれた記号――文字かもしれない――は見たことがなかった。
私がその紙をじっと見つめたその時。紙が眩しい光を放って、私の意識はそこで途切れた。
◇
「――様、マレビト様」
女性の声が聞こえる。視界が開けて、ぼんやりと映る世界が次第に輪郭を取り戻していく。私が見たのは、夜だった。
和風な建物がずらりと並んだ大通り。私はその入口に立っていた。店先に掲げられた提灯が一直線に並び、そして空中に光る球体が浮かんでいる。提灯に宿る橙色の光と、それから光る球体が照らす夜の世界は幻想的な風景を描いている。
大通りに並ぶ建物はどれも店のようで、雑貨や食べ物が売られていた。大通りは賑わっていて、その様子は観光地然としている。その光景は、中学校の修学旅行で行った京都の土産物屋が並ぶ街並みを思い起こさせた。店先で会話をしたり、大通りを歩いている客たちは、自分と同じような洋服を着た人間から和服の人間、角や動物の耳を生やした人(?)まで様々で、さながらゲームの世界だ。
「マレビト様」
もう一度女性の声がして、私は視線を正面へ向ける。そこに立っていたのは、ランタンを持ったひとりの女性だった。長い黒髪を三つ編みにして巫女装束を着ている。生まれたての夜をそのまま閉じ込めたような群青色の瞳が、朱色の装束の中で際立って見えた。
「ようこそ、マレビト様」
彼女はそう言って、にっこりと笑った。
「ええと、ここは……?」
「ここは常夜。永遠の夜が続く世界にございます」
彼女は笑顔を崩すことなくそう言った。何度も言い慣れた台詞のような、そういう言い回しだった。
「あなたは?」
「わたくしは常夜の案内人。めぐると申します」
めぐると名乗った女性はそう言って一礼する。
「案内人?」
永遠の夜。案内人の女性。歓楽街。何か思い出すものがある。そうだ、今日買ったあのエッセイだ。〈不可思議な夜〉と題されたあの一篇。私はもしや、あのエッセイの著者と同じ世界に迷い込んだのではないだろうか。
「マレビト様、招待状を手にされましたでしょう」
こちらの考えを見透かすようにめぐるさんが問いかけた。
「招待状?」
「星形文字の記された、小さな紙にございます」
「もしかして、あの本……」
星形文字。今日買った本に挟まっていた紙に書かれていたあの記号は、確かに言われてみれば文字にも見える。
「ああ、確かに、買った本に挟まっていました」
めぐるさんは「なるほど」と言って、
「それはわたくしたちが時折現世の皆様にお出ししている『招待状』でございます。『招待状』を手にされた方を、わたくしたちはこの常夜にお呼びしています」
「ってことは、私はこの世界に呼ばれた、と?」
「さようでございます」
さらりと答えるめぐるさん。
「あの、ひとつ訊いても?」
「どんなことでも」
「私、帰れるんですよね?」
最大の懸念事項。異世界に来てしまったのはまだ良い。というか一度来てみたかった。だから今、状況を飲み込み切れてこそいないものの、結構楽しい。だが帰れないとなると話は別だ。
「ご安心くださいませ」
めぐるさんが言った。良かった。
「ただ、その代わりに」
めぐるさんが続ける。私は思わずごくりと唾を飲み込んだ。帰るために条件があるのか。
「マレビト様の『心の星』を頂きとうございます」
「ココロノホシ?」
私が聞き返すと、
「ここから先は、ご案内しながらお話しさせていただきます」
こちらへ、とめぐるさんは私に手を差し出す。私は内心震える思いをしながら手を取った。
◇
「常夜はあらゆるものを用意してございます。お芝居、演奏会に踊りに祭りに食事」
めぐるさんに先導され、私は大通りを進んでいく。時折甘い香りがして横を向くと、何かお菓子が売られていたりする。
「マレビト様の望むものを、存分にお楽しみいただきたいのです」
彼女はそう言って足を止めて、こちらを振り返る。
「あのー、それは良いんですけど……お金、かかりますよね?」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「人間のお客様――マレビト様からお代は頂いておりません」
彼女は上を見上げた。光る球体がふわふわと、星空へ向かって飛んでいく。
「あれこそが『心の星』。マレビト様がここで楽しまれた気持ちが形を変えたもの。わたくしたちが求めるものにございます」
「何のために、心の星を?」
「この世界のために」
「この世界?」
彼女は視線を上からゆっくりと下ろし、そして僅かに目を伏せた。
「この常夜で生み出されるものの、すべての根源となるのが『心の星』なのです。この世界を続けていくために不可欠なもの。それが」
「心の星、ですか」
私は彼女の言葉を引き取るように言った。めぐるさんが「さようでございます」と微笑む。
「この世界は、一体何なんですか」
甘い香りを伴った、柔らかな風が大通りを吹き抜けた。冷たくも暑くもない、湿度を伴ってもいない、ただ心地のよい、温かくて優しい風。
「それは――」
めぐるさんは、ランタンを持っていない方の手を口元に当てて人差し指を立てる。
「まだ、秘密です」
いたずらっぽい笑顔は、どことなく少女のようにも見えた。
◇
「存分にお楽しみくださいませ、マレビト様」
彼女の言葉に導かれて、私は常夜を巡った。夏祭りの屋台のような射的で獲った景品は、小さなウサギの置物だった。なんてことないおもちゃにも見えたが、白い体に瑠璃色の宝石のような目が埋め込まれていて、提灯の明かりを受けて光が揺らめく。
歩いてお疲れになったでしょう、と案内されたのは甘味処。あんみつの甘さが歩き回った体に沁みる。添えられた果物はみずみずしく、寒天の食感も楽しい。今まで食べたどのあんみつより美味しい。楽しい。心が温かく、明るくなっていくのが分かる。それと同時に、
「めぐるさん?」
「何でしょう?」
正面の席に座る彼女が塔のような巨大なパフェをぺろりと平らげているのはどういうことだろうか。
「ここ、パフェとかもあるんですね」
メニュー表は充実していて、あんみつの他にもケーキやパフェの文字が並ぶ。ふと気が付いたが、メニューの文字はすべて私が見慣れた日本語の文字で書かれていた。
「今までのマレビト様のご要望にお答えした結果、現在のような形になりました」
口の端についたホイップクリームをハンカチで拭った彼女は「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
甘味処、というからには時代劇のセットのような店を想像していたが、内装は和風のカフェ、と言ったところだろうか。私が今座っているのはテーブル席だ。やけに現代的なのは、「招待」した人間に楽しんでもらうためなんだろう。
店内も賑わっている。私のような人間の客も、おそらくそうではない客も、皆甘味に舌鼓を打っているようだった。
◇
次に案内されたのは芝居小屋だった。しかしここも時代に合わせて形を変えたようで、花道や桟敷席こそあるが、客席は完全に現代の劇場と同じ形態になっている。
上演された演目は、この「常夜」の創世神話といったところだろうか。
舞台は遠い昔の中津国、つまりは日本だ。空の彼方からやってきたひとりの神は、人間の少女に助けられる。少女は祭りの舞い手だった。彼女の踊りを見て楽しむ村人たち。彼女自身が光を放ち、纏い、自由に舞う。少女の舞を見つめ歓声を送る村人に、神は人間の、この上ない心の高揚を見た。その心の動きは、神に力を与えた。神は本来の力を、望んだものを作り出す力を取り戻したのだ。そして神はそのムラに、かつてないほどの恵みを与えた。ムラは神を祀るようになった。少女はやがて年老いて亡くなる。しかし彼女の踊りは次の舞い手に受け継がれ、祭りは続いた。ムラは幸せだった。
しかし第二幕、物語は急展開を迎える。中津国を統一せんとした朝廷が攻めてくる。朝廷から見た彼らは「外」からやってきた神を祀り、朝廷に従わない、いわゆる「まつろわぬ民」だった。ムラは滅びた。神は愛した人間たちを、そして自分に対して向けられていた信仰を失った。やがて神は、中津国を去った。
中津国を去った神は空の彼方をどこまでも行き、そしてある「世界」を作った。永遠の夜が続く世界。常夜だ。
世界には住民が必要だ。神はそれすらも創った。人間を模した眷属たちを生み出し、常夜に住まわせた。そして在りし日のあのムラの祭りが永遠に続くように、思いつく限りの娯楽を常夜に詰め込んだ。
神は時折、現世から人を呼ぶ。呼ばれた人間は常夜で遊び、食べ、存分に楽しみ、そして「心の星」を生み出して、また現世に帰っていく。人間の感情から発生した「心の星」は神の元へ集まり、神は「心の星」を集めて、常夜を形成するあらゆるものを生み出し、この世界を維持していく。
舞台は今の常夜の景色を描いて幕を閉じた。拍手で満たされた芝居小屋は、光で満ちていた。
舞台の中央で、舞い手の少女を演じていた役者。彼女を照らす光は、スポットライトではなかった。照明から舞台に向かって伸びる光の筋がどこにもないのだ。あれは、言うなれば、彼女自身が発光していたようにすら思えた。神が魅せられた舞い手の少女も、きっとそうだったのだろう。
◇
「いかがでしたか」
芝居小屋を後にした私に、めぐるさんが問いかけた。
「楽しかったです、とても」
「その言葉を頂けて、幸甚に存じます」
そのときだった。私の胸のあたりから、ふわりと光る球体が浮かび上がってきた。
「これは……」
「マレビト様の、心の星でございます」
私から生まれた心の星は、空を目指して飛んでいく。しばらくその光景を見つめていたが、やがてそれは空に溶けるように消えて見えなくなった。
「きっと我が主も喜んでいることでしょう」
めぐるさんは満足そうに言う。
「主?」
「この世界をお創りになった、虚津星見神(そらつほしみのかみ)様にございます」
今しがた見た芝居に出ていた「神」。虚津星見神というのか。ということは、つまりその神を「主」と呼ぶめぐるさんは、その神の眷属なのだろう。
「マレビト様」
気づくと私は、最初に立っていた地点に戻って来ていた。
「お別れの時間が来たようです」
常夜に来た人間は、心の星を生み出し、また現世に帰っていく。
「めぐるさん」
私は最後に、彼女に質問をした。
「また、来られますか」
「マレビト様がそう望まれるのなら、きっといずれ」
微笑む彼女は、持っていたランタンを高く掲げる。ランタンが激しい光を放ったかと思うとその光は私を包む。それが、常夜で見た最後の光景だった。
◇
「あれ、寝てた……?」
目を覚ますと、私は自室のベッドの上に横たわっていた。何か夢を見ていた気がするけれど、はっきりと思い出せない。枕元には、古本市で買った本が置かれている。
身体を起こすと、服のポケットから何かが落ちる。拾い上げたそれは、小さなうさぎの置物だった。瑠璃色の目が埋め込まれたうさぎ。どこで買ったのかは思い出せないけれど、なぜだか無性に懐かしい気がする。
縁日で遊んだような、劇場に行ったような。断片的な記憶は朧げに残っているが、それらがひとつの像を結ばない。しかし心の中は不思議と温かく、ほんの僅かに、いつもと同じ世界が輝いて見えるような気がした。