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お上品に食べているように見せてくれる箸

小さいころからおじいちゃんに箸の持ち方を特訓され、特に魚はキレイに食べられる自信がある。米粒一つも残さずにキレイに拾い上げ、お茶碗を美しく保ちながらご飯を食べる自信もある。

だから、箸なんて100均でもなんでもいいと思っていた。ある程度の長さがあって、見ていてきれいだな、かわいいなと感じるモノであればどれでもよかった。

たかが箸、されど箸。

ご飯を食べるときに、生きるために必須の箸、日本人ならば箸に気をつかわずにどうする?ということを気づかせてくれた箸に出会った。

いつもいつもおいしいご飯を食べさせてくれる友人宅で出てきたこちらのお箸。ただの使い古した木の箸と思うには早い!


百年煤竹箸といわれる神々が宿る奥出雲で作られた箸である。

煤竹とは
田舎にある茅葺き家屋で屋根の骨組みに使われ、数百年の永い年月にわたり囲炉裏の煙に燻された竹のことです。

煤竹工房奥出雲

キレイに丁寧に煤を取り除き、手間暇かけて加工するお箸は一つとして同じものがない。自分だけのお箸。

色の濃淡も違うし、使えば使うほど味わいが出てくる、いわゆる一生もののお箸だ。
友人宅のお箸ももう何年も使っているようでかなりいい味わいが出てきている。が、古びた感じは全くない。

何セットもある煤竹のお箸は、答え合わせをするのも楽しい。一つとして同じものがないものの、微妙に似ているから、これとこれがセットかな~と考えながら並べるのだ。成型の過程で現れた竹繊維がぴったりとあうように作られているので、そこにピタっとあったときの爽快感がたまらない。

そして何より使っていてとても心地がいい。まっすぐに伸びた箸はとても軽く、手にすっとなじむ。なにより、手の甲が厚みがあり、昔から「パン手」と呼ばれ、友人たちにぷにぷにされているずんぐりむっくりの手を持つ私が持っても、手タレになったんじゃないか?というほど、所作がキレイに見える。友人がたまたまご飯を食べているわたしを撮影してくれたのだが、お上品に食べているように見えるのだ。

極細の箸先は所作を美しく見せるだけでなく、どんな小さなものもつまめる。試しにゴマをつまんでみたらひょいと!

100均の箸を愛用していた自分からすると清水の舞台から飛び降りる覚悟で買うお値段なのだが、一生自分と添い遂げてくれると思うと、それほど高いという気はしない。

最近、なんと表現していいかわからないけど、感覚で、「これいいな、これ好き」という気持ちを大事にするようにしている。どんなに高くても、この感覚になったときは幸せな気分になるし、素敵なモノとの出会いは生活を豊にしてくれる。

いいものを大事に丁寧に使う。そんな暮らしにハマっている。

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