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朝美 -act I

「バッハの」と彼は意外にも知っていた。「チェロの無伴奏組曲ですよ、たぶん」
「大バッハか」私は思わず、口に出す。バッハという名前の音楽家は大勢いて、なぜか、一番有名なバッハは、大バッハと呼ばれているらしいが、その呼び名が私は好きだった。
「いいな、これは」
「僕も好きなんですよ」萩原はテーブルの上の伝票をつかんで、ここは僕が払いますよ、と言った。「優雅で、切なくて、そよ風とも嵐ともつかない曲。そんな気がしません?」
その表現はとてもぴたりと来て、私は、ほお、と感心する。-『死神の精度』


人との出会いは、不思議なものだ。
かたくなに守っていた価値観が、ふとした出会いによって、がらりと変わってしまうことがある。過去の解釈も、未来への想いも、まるで違う映画を観ているように切り替わり、新しい物語が始まっていく。

そう何度もあることではないけれど、それでも何かが変わった、と感じる瞬間はたしかにある。それはつまり、自分というものは今までの経験から生まれた反応の総体なのであり、これからの出会いによって、いくらでも新しく生まれ変わる可能性を秘めている、と同時に、自分の意志とは無関係な次元で、何かが変わることに抗えない、ということでもある。

抗えないのであれば、その出会いを良かったものだと解釈し、自分と、そして相手の物語へと昇華させて納得するしかない。それは処世術、というよりは、祈りに似ている。そう、もう祈ることしかできないのだ。彼女と出会ったことは、お互いにとって良かったことなのだ、と。


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コンタクトレンズを買いに行った時、眼科の待合室で彼女を見つけた。

すらり、と姿勢良く伸びた身体。華奢、というほど細くはなく、健康的だ。ふと見た感じでは、小顔で綺麗めな猫顔。歩くさまはゆったりと、オールバックにまとめた髪はしなやかに揺れている。ありふれた日常のなか、彼女だけが違う時間を生きているような、そんな雰囲気をまとっていた。彼女は美しかった。

さすがにここで声をかけるのはまずい、か。眼科の待合室は清潔感があり合理的で、つまり異物を拒絶する空気で満たされている。下手に声をかけると不審がられるだろう。先に診察を終えた僕は、外で彼女を待つことにした。

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