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アイ

「その気持ちは恥じなくていいよ。恥じる必要なんてない。どうせ自分は被災者の気持ちが分からないんだって乱暴になるんじゃなくて、恥ずかしがりながらずっと胸を痛めていればいいんじゃないかな。よく分からないけど、その気持ちは大切だと思うんだ。何かに繋がる気持ちだと思うから」-『 i 』


慣れない街の喫茶店で本を読んでいた。たしかちょうど一年ほど前にも来たことがある街だった。予定より少し早く着いた暇を持て余すと、商店街に面したひらがなで書かれた呪文のような名前の喫茶店にふらりと入り、コーヒーの気分ではなかったのでアイスティーを頼んだ。まとまった時間が取れたわけでもなく、なんとなしにカバンに入れていた本を開きぱらぱらとめくるも、しばらくすると文字を追う目線は紙面を滑り始め、いつの間にか違うことを考えている。再度本に潜ろうと試みても、ほどなくしてすぐに弾かれることを数度と繰り返した。こういう時は、頭の中にぐるぐると渦巻いてる言葉を、一旦外に放り出してやる必要があるのだと思い、何の脈絡も無く誰に宛てるでもなく僕はSNSに向かって呟いた。

葛藤を抱える力と矛盾を受容する感情

なんのこっちゃ、と心の中で自分にツッコミをいれるも、しかし今の自分にとって大事な言葉のような気がする感覚はたしかにあった。誰かの反応を意識して言葉をつくるのではなく、ふと水の底から浮かんで来るような言葉を、そっとすくうように言葉を綴る。自分を見つめるとき、そういうことが本当に大切なことなのだと僕は思う。

彼女に連絡をいれた。いつもなら相手が迷うことのないよう分かりやすい待ち合わせ場所を指定するのだけれど、慣れない街に土地勘はなかったし、一応初対面の間柄で、店で待ち合わせ、というのも少し無粋かなと思い、お互い駅に着いた頃に電話しながら会えばいいかなと考えていた。彼女からは、少しギリギリになりそうで、雨も降ってるしお店で待っていていいですよ、と連絡がきてふと窓の外を見ると、たしかに街を歩く人々が傘をさしていた。家を出る頃から、なんとなく雨が降りそうな気はしていたが、僕は傘があまり好きではない。というよりも、せっかくおしゃれをしていても、コンビニのビニール傘は全てを台無しにするし、何より持ち歩くあの手間がわずらわしい。折り畳み傘はやはり便利なのだろうが、好みの折り畳み傘を見つけられてもいなく、見つける努力もしておらず、普段使いの傘に明確な解を見つけられていないまま僕は日常を過ごしていた。そんなことをだらだらと考えていたわけでもないが、どうしたものかな、と返信を考えているうちに彼女から駅に着いたと連絡が入り、思ったよりも早い到着に僕はそそくさと荷物をまとめて、雨が降る街を駅に向かって走っていった。

この街は僕にとって特別な街だった。よく来る、というわけではないのだけれど、この街のことで思い出す女性は誰もが、僕にとって特別な人だった。彼女から、「なつめさんとなら、行ったことはないけれど絶対に信用のおける人から紹介してもらったバーがある」、と提案されたのがこの街にあったのは、不思議な縁だなとも思う。

駅に着くもそれらしき人は見つからず、僕は彼女に電話をした。駅前の建物の前にいるという。彼女の声がうまく聞き取れず、おでん?と僕は聞き返し、駅前におでん屋なんてあっただろうか、おでんおでん……と見渡すと、横断歩道を渡った向こうに、家電量販店のような名前の大きく光った看板が目に入った。ああ、あれのことか、と僕はそれが見える自分の場所を告げると、私はチェックの傘をさしていますよ、と電話越しに彼女が言った。横断歩道を渡り終えて建物の方を見ると、まるでターナーの絵画のような色彩の傘が、建物から漏れる光に照らされ浮かんで見えた。その下に、白いコートを着た女性を認識し、彼女を見つけたことを伝えると、彼女もこちらを向いて耳にあてた携帯電話を降ろすのが見え、僕も通話を終了した。

声が届く距離になると、彼女は傘の下から覗くようにこちらを伺い、「初めまして、ですね笑」と笑顔を見せた。
想像していたよりも、彼女は少し小さく見えた。遠くから見えたコートは、近くで見ると真白というよりはオフホワイトに近い柔らかな色味で、全体の雰囲気は柔和な大人の様相なのだけれど、赤い靴下や目元の化粧、センスを利かせたチェックの傘が、品良く個性を主張していた。そのバランスが、彼女の若さ相応な気もしたし、自分の好みがよく分かっているといった身持ちの彼女は、この先も年齢相応の魅力を獲得していくのだろうと感じた。

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