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父が 「もしも〜だったら....」のゲームに乗らなくなってきた訳

さて、今回は父のことを書かなくては、な。
そのためにnoteをオープンしたのだから。

我が父のことを、少しずつ。

父87歳。
4歳年下の母が65歳で亡くなり、それ以来ずーっと1人暮らし。
父の、もうちょっと詳しい紹介は次回に書くとして(と後回しか?!)、
今日は、私が実家に帰るたびに父とする会話などをちょっと書いてみようと思う。

実家に帰るとよく父と会話する一つに、
「もしも母が、、まだ生きていたら?」
ドリフのもしもシリーズ、我が家編。

毎回お互いの想像の翼をばっふんばっふん言わせて、あれこれと話しに花が咲く。
この会話が、私はなんか好きなのだ。
今生きていたら、、。と、母がそれなりに歳を重ねた姿を想像するのだ。母の言葉や行動も、想像しまくり千代子。
例えば、地元にオープンしたけど全然お客さんが入っていないレストラン。そんな店を見つけた時などは、
「母がまだ生きていたらさぁ、、」
「そうそう、絶対に偵察ランチに行ってるよね!」
「料理が美味かったら絶対に店長に言っているよね、美味しいんだから頑張ってよっ!とか」
「頼まれてもないのに、応援団長しているよね、っくく。」
「知り合いにも宣伝しまくるだろうね、ビラも一緒に配ったり。キッチンにも入り込むな、、。」とか。あ、これは実際にあった話なので、そんなに盛ってはいないのです。

十数年前、私の姉(ねぎ姉)が小さな昭和的スナックを始めた時には、
「母が生きてたらさ、もう絶対この店乗っ取られただろうね。母がママで姉がチーママ!」
だって、若い時からずーっと食事屋をやりたい夢があった母は、お酒ワイワイも大好きで。きっと絶好のチャンス。

こんな「もしも母がまだ生きていたら連想ゲーム」。私たちには、母のその様子がありありと見える感じで、楽しいのだ。

もう一つは、「絶対に母じゃないのはわかっているけどゲーム」
母は、限りなく白に近いロマンスグレーのベリーショートカットの、オサレ番長な感じだったのだ。
でも60歳過ぎてからは、なぜかテヤンデェ馬鹿野郎が似合う、江戸っ子大工さん風に変化して、いつの間にか五分刈りになっていったのは、なぞである、、。
まぁ、そんな風貌であった。

父も姉も私も、母が亡くなってからは、スタイリッシュだろうが五分刈り大工風であろうが、女であろうが男であろうが、とにかくそういう髪型の人を街で見かけると、思わず「似てない、、?」「似てるな、、」「こっち見ないかな、、」「追い越してチェックしてみようか?」「いいねぇ」なんて言って。通り越す振りして何気に回り込んだりして、その人の顔をチェック。
そしてほぼ99.9%、「やっぱ、母じゃなかったわ」「ふん。違ったか」という会話で落ち着く。
でも、たまにたまに、0.1%ぐらいの確率で、「似すぎだ」「私たちの知らない叔母とか!?」「そんなバカな、、」なんて会話になるのである。
もしかしたら私たちの潜在意識が、そんな遊びを通して「もう母はこの地球にいませんのよ」という確認作業をさせてくれていたのかも、かもかも。

あぁ、、また父よりも母のことが多くなっているよ、、。

で! ここ数年の父といえば、、。
ロマンスグレーなショートカット 、または白髪の短髪オヤジを見かけても、父の反応が昔と違ってきているのだ。
前は、なんか哀愁こもったような口調で、
「あの人、、似てるねぇ。でも雰囲気が違うなぁ。母はもっと格好良かったよな、なぁ?」
なんて言う感じだったのが、今では、

「え。似てた? ふーん。」

それだけ。みたいな。
あれ~~、なんだ父よぉぉ。

そしてそして、数ヶ月前。
実家に帰国した時、もしも母がまだ生きていたら連想ゲームを、久しぶりに父に投げてみた。
「ねぇ!もしも母がまだ生きていたら、今頃どんなだろうと思う?」
そうしたら、あーた!思いがけない父の反応で。私はびっくりこいた。

父「えっと、、。今だったら、幾つだろう?」 
私「父より4つ下だから、83?」
父「もう、そんなん歳か!あの人はいつも年上に見られてたから、結構見た目すごい婆さんになっちゃってたりして。
もしかしたら、もうボケちゃってるかもしれないよぉ? そうしたら、あれでしょ、私(父)が介護するわけでしょ? 大変だよぉぉ~、だって私だって歳ですから。老老介護よ! 
うん。あの時に逝ってもらっちゃってて、良かったのかもなーー!
だって。

私は「え”っえぇぇえええーー!」と、顎が外れて床まで落ちるくらい、そのくらいびっくりした。
そしてその後、大きな声で笑ってしまった。

母と父はまぁ仲良しではあったけど、ひとりで過ごすことを好む父と、ワイワイすることが大好きな母は、2人で何かを楽しむ時間が、あまりなかったと思う。
趣味の多い父は休みの日にはほぼ1日中、黙々と釣具を作ったり、刃があるものをかたっぱしから集めて研ぎまくったり、分けの分かんない物を作ったりしていたのである。
そして母はどうしていたかと言うと、父のお昼ご飯を用意した後、お買い物やお茶をしに外出することが多かったのだ。
だって一緒に家にいるのに、どこか1人ぼっち感(だったろうと思う)。
幼少だった頃の私は、「父ともっと一緒に過ごすしたいよぉ〜」な母の思いをすごくすごぉ〜く感じていたし(子供は敏感に親の気持ちを察知する生き物)、
それ以前の記憶、母の羊水にぷかぷか浮かぶ胎児だった頃だって、母の寂しい気持ちを小さな背中からよく感じていた。(これは、またいつか書ける時があったら、書いてみよう)。

そんな母、大病する数年前から口に出して言い始めたことがある。
「父が定年したら、一緒に旅行に行きたい!」
 
母のその思いは、念力に果てしなく近かったように思う。だってあの旅行嫌いだった父の心がピクピクと母の願い方面に動いている瞬間を、私は何度か見たのだ。
観念したような顔だったけど、でもまんざらでもないような父の顔でもあった。

で、母は入院して亡くなるその寸前まで、その夢を持ち続けていた。それが彼女の生きる希望でもあった。
点滴打ちながらも、
「ケンちゃん(夫のことをいつもそう呼ぶ)との旅行は、やっぱり最初は近場からが良いかしらねぇ?」
なんて、口に出して言っていたもの。

そんな母が亡くなってから、母の願いを叶えられなかった父が良く口にする言葉があった。
死んじゃっちゃ、、おしまいだ、、
死んでしまったら、何をやってあげたくても、もう間に合わない。
あぁしてあげれば良かった、こうしてあげれば良かったと、父は後悔バリバリになってしまったのだ。
それを背中に背負うかのように、後悔なのか十字架なのかなのかはわからないけど。

でもここ数年、街なかでロマンスグレーの人を見ても父はあまり母を連想しなくなり、、。そして先ほどの、先に死んでくれちゃってサンキュー的な問題発言!

私は思った。
そうか、そんな憎たらしく問題発言しちゃうくらい、父は元気になったのだ。
そうそう。これが我が父なのだ。
いつも憎き毒舌野郎なのだが、この時は、
父よ、良く言った!
とさえ思った。
だから私は、父の言葉でびっくりしたと同時に、ちょっと嬉しくなり、その思いが大きな笑い声となったのだ。

父は、少しずつ少しずつ、母の死から癒えていたのだ。
あ、その言い方はちょっと違うな、、こんなことは一生癒えるものではないのかも。 
吹っ切れる。 諦められる。 という言葉が近い。のかな。
癒えはしないけれど、でも、気持ちは吹っ切れる。、みたいな。

そして現在の父は、それよりも何よりも、いま自分が生きることで一生懸命なんだ。
認知も進んでますし! やることなすこと4倍も5倍も時間かかってしますし! 老人性鬱で1日を過ごすことが辛すぎることも多々ありますし! 自分を生きていくことが、今の一番の課題なんですから!
と、私は勝手に、彼の自分宣言を想像する。

母が先に死んじゃって、それで良かったのかもね、父。

でも、なんだかんだ言って、20年近くかかったよね。こんな時間がかかるもんなんだね。
吹っ切れて、諦めついて、寂しいけどさ、今の自分のことを一生懸命と生きる。


母が亡くなったすぐ後に収納棚から出てきた壺があった。
その壺には、私が生まれた年号が貼ってあった。そしてその中には、40年以上も経った梅干しが。そう、私を身ごもった母が作ったらしき梅干し。
すごーい! すごいけど、、。 食べれるんかいな。
で、みんなで、恐る恐る試食会、、。 ペッペッ、、。 っ不味。

で、それ以来、父は何を思ったのか急に梅干しを作るようになった。
春になると、毎年毎年。

そして、今年も梅の季節になった。
「梅干し作り、もう今年は無理かなぁって思っていたんだけど、、。
でもさ!今朝、急にやる気が出てきちゃってさ〜。それが、なんかすんごく嬉しいのよぉ!」

オネエ口調の父にちょっと笑っちゃったけど、同時にジーン。
老人性鬱になると何に対してもどうもやる気が出なくなり、それが本人はすんごく辛いんだよね、、。
だから、やる気の出た今朝は、そりゃ嬉しかろう〜〜〜!
っと、思わずジーーンとなったのだよ。

今朝も散歩先の公園から、父からのビデオ電話。
梅の話で、また花が咲く。良かった、まだやる気が続いている様子。 っほ。 
昨日樽に漬けた梅干しの話を壊れたレコード版のように、繰り返し繰り返し、そしてさらに繰り返し話す父の顔と、公園にこだまするような弾む声。
認知忍法で梅干しの話を延々とする父が、とても愛おしい時間でもありました。

おしまい。



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