障害を持つ当事者たちが求めてきた「自己選択・自己決定・自己責任」について
1.近況と、裁判傍聴支援のお願い
こんばんは。Pulmoです。
先日、代理人弁護士の先生お二人にお時間をいただき、障害者の権利擁護をやっている団体の方々とお話をしてきました。
裁判が始まってから、発達障害や自閉症の当事者団体や支援団体、発達障害について情報発信をされているインフルエンサーの方、ジャーナリストさん達から、傍聴支援の呼びかけなどについてご支援をいただけることが増えて、本当にありがたいです。
また傍聴支援に来てくださったり、応援メッセージを送ってくださったりして、いつも私を支えてくださる友人知人の皆様も本当にいつもありがとうございます。
(”友人知人の皆様”とか、なんかよそよそしいかな……)。
5月の第5回期日からは、裁判官が3名に増えて合議制で進んでいくことになります。法廷も以前より広くなります。
本訴訟では、障害者採用で入社した社員に対する合理的配慮の否定や不提供の問題・会社代理人弁護士による退職勧奨・雇い止めをめぐる問題・新型コロナ禍での通勤訓練の強要等、争点も多いので注目していただきたいです。
お時間ありましたら、ぜひぜひ東京地方裁判所に応援に来てくださると嬉しいです。
2.障害者の権利擁護運動と、当事者の権利としての「自己選択・自己決定・自己責任」の話
さて、今日のことに話を戻します。
長年、障害者の権利擁護をやっている方々の話は、私にとっては目から鱗でした。
さまざまな障害者を持つ人々が、長年求めてきた権利の3つの柱は「自己選択・自己決定・自己責任」。
日本ではこれまで、たとえば
上記のように、障害者本人に「選択をさせない(選択肢を与えない)」、「本人の意思で決定させない」ということが、平気で行われてきました。
今もそれは続いているかもしれません。
しかし、一方で「自己責任」だけは、過剰に強調されているのではないでしょうか。
自分の意思で選択すること。
自分の意思で決定すること。
この2つが保障されているからこそ、選択・決定して行なった、自身の行動の結果に対して責任を持つことができます。
これらが生まれた時から奪われている人、ある日突然に奪われる人がいる。
これは、「普通」に生きてきたら、想像もしないことかもしれません。
また「誰一人、排除しないインクルーシブな社会」、「多様性のある社会(ダイバーシティー)」も、都合のいい解釈で歪められることがあるのではないでしょうか。
「誰一人、排除しない」、「多様性がある」ということは、「多様な意見をありのまま受け入れる」ということであり、「反論を許さない」、「同調を強要する」ということではありません。
このような話も、改めて聞くと「本当にそうだよな……!」と思うのですが、我々障害当事者は「そうはいっても、配慮をお願いすると迷惑だって思われるし……」、「配慮してくれとお願いすると、わがままだと言われるし……」と躊躇しがちではないでしょうか。
権利を主張すると叩かれる社会。
3.自虐的な思考は、裏を返せば傲慢
そして、これは、ここ2年くらい同じようなことを言ってくれる人が増えたのですが、今日も言われてビックリしてしまったこと。
それは「私のせいで迷惑をかけた」、「私がいなければ、こんなことにならなかった」と思ってしまうことについて、「そう行動すると選択をしたのは、その人自身であって、あなたの存在がその決定に強く影響していると考えることは逆に傲慢では? そんなことは気にしなくてもいい」ということ。
意志を持って行動を起こせば、人々はいろいろなことを言ってきます。
それらに全てに「すいません」と首を垂れれば、自分の意志をつら抜けない。
人の顔色を見て生きるのか。それとも、自分が納得した生き方をするのか。それを自分が選び、決める。そして、自分が決めて行動したことについて責任を持つ。
今の私には、それができる。
引き続き、見守っていてください。
……と、長々書いたのですが、挨拶が終わった後「全員揃ったら、写真を撮らせていただけませんか」と集合写真を撮る許可をもらっていたのに、完全に撮り忘れて「今日はありがとうございました!失礼します!」と帰ってきてしまった私。発達障害あるある……。
4.裁判に関する公式サイト「原告からのご報告」
訴訟に関して、詳細は上記のWebサイトにまとめております。
引き続き、よろしくお願い致します!
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