お祈り死にたい

 よく、「死にたい」と呟く。そうすると「早く死ねばいいじゃない」というコメントをいただくことがある。言葉通りの動機を読み取るとそうなってしまうのも無理ないだろう。私はそんな匿名の彼、彼女のことを攻めようとは思わない。今回は、わたしの"死にたい"について話そうと思う。

 死にたいのは、自殺願望があるのではないかと疑われることがよくある。全くの見当違いである。わたしは物理的に死にたいわけではなく、自分の気持ちを昇華させたいがために言葉にしている。それは自殺願望ではなく、自失願望なのである。自失というワードと初めて出会った時すごくスッキリした記憶がある。つまり、それは自分を失いたい心のことだ。自分が自分であるのが苦しい、自分を自分であると認識するのが苦しい。だから自分を失くしてしまいたい。それは単純に自分を殺してしまいたいと言う感覚とは違う。観念的に失うことさえできればいいのである。趣味に没頭、仕事に没頭、恋に没頭、夢に没頭。何かに偏っている時に人は無心になれる。心を失いたい。それが本質なのである。

 わかりやすいセリフで"死にたい"を表現するなら「心がないものになりたい」であろう。

 "死にたい"は言わばアーメンと同じなのである。死にたい死にたい死にたい、それは神様に手を合わせて救いを求めるお祈り。

 私たちは、この世の中に生まれてきてしまったから楽しくても嬉しくても悲しくても苦しくてしかたなく、恥ずかしげもなく生きていかなければならない。希死念慮は必要な量だけ与えられている。そんな私たちを救いに導いてくれるのが"死にたい"というささやかなお祈りなのである。

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