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142. 失敗と自己肯定感の関係

みなさんこんにちは。三浦優希です。

今日は、日本に帰ってきた時によく感じることについてお話をしたいと思います。

今回のお話のテーマは、「人の失敗を許容できるようになろう」ということです。

よろしくお願いします。

トライした人に向けられる言葉

いくつかのアイスホッケーチームの練習に参加した時や、子どもたちと一緒に練習をする際に僕がよく感じることの一つに、コーチやチームメイト、親が、失敗をした選手に対して厳しい対応をしていることです。あくまで個人的な感覚ですが、

「なんでミスしたんだよ」
「もっと集中しろよ」
「どこにパス出してんだよー」

など、思い通りのプレイを他人がしてくれなかったことに対して、とっても冷たい態度を取る人が多いように感じます。

こういった姿を目にした時、僕はいつも心が痛みます。

もちろん、チームメイトや、指導している選手たちが、指示をした内容をこなせていない状況になった時、ストレスを感じることは仕方ないかもしれません。それに、勝利を目指す集団になればなるほど、ミスに対して選手やコーチが厳しく咎めることは必要になることもあります。

ただ、例えば育成年代においては、僕は何よりも、その選手が「トライしようとしたこと」についてを認めてあげるべきだと思います。

経営学者の米倉誠一郎さんは、「転んだ人を笑うな。 彼らは歩こうとしていたんだ。 」という言葉を残しています。

これは海外に行く選手が特に感じることだと思うのですが、何か新しいことに挑戦する人や、新しい環境にチャレンジをする人、そしてそのチャレンジがうまくいかなかった人に対して、悲観的な意見を述べられることは決して少なくありません。

例えば、「わざわざ日本を出てまでアメリカに行ったのに、結局通用せずに帰ってきたんだね。失敗だね。」といった印象を持たれる選手もこれまでにたくさんいたはずです。

結果だけを見れば、成功といえないことはあるかもしれませんが、それは、挑戦をした本人が決めることであり、僕は他人が口を挟むことではないと思っています。

どんなに小さいことでも、大きなことでも、地を蹴り足を踏み出した人に対しては、その結果がどうであれ、まずはその勇気を認めることが大切だと思っています。

そして、もしそれが「失敗」と思われるようなことだったとしても、「こいつはもう終わりだ」という態度を取るのではなく、本人も周りの人も「これを糧にして次を頑張ろうね」という姿勢を見せ続けることができれば、もっともっとチャレンジに対して不安を抱く人は少なくなるのではないかと思います。

少し前に読んだ本に、「最難関のリーダーシップ 変革をやり遂げる意思とスキル」という一冊がありましたが、その一節に

「適応を要する変革への介入についての成功の定義を拡げる」
→うまくいった、うまくいかなかった、だけで決めない

「支持者に心構えを持たせる」
→「成功させるから任せて」ではなく、「私たちは新たなことをやろうとしているんだ」「限界に挑むことで何が起きるか見ていこう」と言う


といった、失敗の許容に対しての話がありました。まさしくこの、「新たなことをやろうとしている」というマインドセットこそ、挑戦者やその周りの人たちが持つべき意識だと思っています。

最初の話に戻りますが、僕は、練習や試合の中でミスをした選手がいたとしても、その選手を責めるのではなく、
・その時に何をすればより良い結果になったのか
・なぜその行動をしたのか
・改善できるところは何だと思うか

などを、同じ目線に立って考えてあげるような人間でいたい、と思っています。

簡単なことではないかもしれませんが、他人のミスや失敗に対して、大きな心で認めてあげることが、結果的にはより大きな成果を得られる一つの方法になるのではないかと思っています。その人の起こした行動に対して伝えるべきことは伝えるけど、「その人なりに何かをやろうとした」という動機の部分までを削り取ってしまうのは非常にもったいないと思います。

これはあくまで僕の個人的な考えであり、ケースによって賛否両論あるかとは思いますが、みなさんはどう思われますでしょうか。

英語の勉強において

もう一つ他のケースにおいて話をするならば、「英会話」が良い例になるかと思います。

先日、英会話スクールGOGAKUDO(語学堂)塾長の小倉進太郎さんという方と対談をさせて頂いたことがあったのですが、そこで小倉さんがおっしゃられていたことに、「言語が多くの人ができないことは、その人の損失だけでなく、社会全体、世界全体の損失だ」というお話がありました。

この言葉の意味するところは、「自分の魅力を周りの人や社会に対して伝えることができないのはその人個人だけではなく、社会にとっても非常にもったいない」ということです。

その上で、小倉さんが成し遂げようとしていることは、「英会話を勉強ではなくアソビとして習得する」という世界観です。英語をただの教科ではなく、アソビの一つであると。

「英語を話しているとき」よりも、「英語なんて概念を忘れて世界の人と遊んでいる時」が本当の幸せ


という小倉さんの気づきは、僕自身も現地での生活を通して感じていたことだったので、深く共感しました。

さて、今回の話のテーマである「失敗の許容」についての話に戻します。英語学習のなかの大きな課題の一つとして、「自他ともに自己肯定感があがりにくい環境」があげられると思います。

「人前で英語を話す=恥ずかしい」
「文法が間違っていたときに指摘されるのがこわい」
「伝わらなかったときが恥ずかしい」
「発音が全然できないから話したくない」

英語において、こういった感情を持っている方は結構多いのではないでしょうか。

僕は、ここが非常に勿体無いと感じます。

こういった雰囲気は、「英語を話してみよう」という気持ちをどんどん削ぎ落としていってしまうでしょう。

こんな雰囲気とは真逆に、たった一言”how are you?”とか”Hello”といった簡単な言葉だけでも相手に通じた時に、自分や周りが「英語が通じた!」と喜べるような世の中になっていけばいいなと思っています。

そしてこの世界観は、先程お話ししたGOGAKUDOの小倉さんが実現したいことでもあります。

「できていない人を非難する」とか「できなかった時が恥ずかしいからアクションをやめる」といった姿勢ではなく、「ちょっとでもできたらそれを周りが褒める」とか「トライした姿勢をお互いに認めあう」といった雰囲気が当たり前な場所が増えれば、自分自身の自己肯定感は高まり、その結果「もっともっと英語を使ってみたい」と思う人が増えると僕は思います。

未来への損失になってない?

さて、今回はスポーツの場と英語学習においてのお話をさせていただきましたが、皆さんはどのように感じられましたでしょうか。

ミスをしないように厳しく接することで得られるものや学べるものはもちろんあると思います。ただ、僕は、その指導姿勢によって引き起こされる未来への損失の方が圧倒的に大きいと思っています。

そもそもな話をすると、「失敗」という言葉自体にネガティブなイメージがつきすぎていると思います。失敗というよりも、「ナイストライ」とか、「いいね!次はここをこうしてみようか!」というふうに、その物事に対してチャレンジをした姿勢をまずは周りが認めていくことができれば、苦しい思いをする人は少なくなっていくはずです。


常に、周りの人に対して尊敬の念を持って接し、自己肯定感を互いに高め合えるような関係性を築いていきたいです。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

三浦優希

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