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その人の常識、その人の価値観。

訪問介護をしていると、その人のこだわりだとか、その人なりの常識、価値観が垣間見えてきて、実に人となりが見えて来るものである。

玄関先に何を置いているかによって、掃除を重んじる方なのかどうかがわかるし、台所の調味料の置かれ方やその種類、シンクの使われ方等によって、料理の得手不得手や得意料理もわかる。

洗濯物を外に干す順番は、上の服、下の服を道路側に干す。だとか、掃除機をかけていくのは、玄関や仏間から始めて台所は最後にしてほしい。だとか。

どれも、私達職員からすれば「?」と思う事だが、ご本人にすればそれなりの理由があり、そのルーティンを作られている。

洗濯物は、ご近所の方になるべく下着や肌着が見えないようにしたいという配慮だし、掃除機は、玄関や仏間を一番に綺麗にしておけば突然来客があっても困らない事と、台所は何かと作りこぼしや食べこぼしがあるから一番最後にしてもらいたいという理由からだったりする。

皆様のご自宅でも、必ず決まったルーティンが何らかの形であるものではないだろうか。そしてそれが滞りなく行われないと、何だかキモチワルイ一日になるだろう。

言うまでもなく我々がすべき事は、人生の大先輩がご自身で作られたルーティンを、我々のような人生の“ひよっこ”の超絶ツマラナイ価値観で、「それはちょっと違うくないすか?」等とほざいてみたり、強引に軌道修正してしまい、その方を混乱させてしまったり、我々が自己満足に浸る事ではない。

その方が何故そのルーティンを作ったかを知り、介護保険の適応範疇で、いかにそのルーティンを守りつつ、支援を行うか。なのである。

それが在宅に居られる高齢者の「支援」をさせて頂くという事だと思っている。

訪問介護は、施設と違い帯の介護ではなく、点の介護である。でも、だからこそ訪問介護員が入る事でその方の生活の軸を変えないようにしつつ、点で効果的に在宅での生活を送れる支援を目指している。


『相手を知る事、自分だったらどうなのか。』


それは例え認知症の方であっても勿論同じ。

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そして、身内であっても勿論同じだ。

毒妹が、かつて病で先が長くなく、誰が誰なのかもわからなくなっていた母と私が再会した際。

この時に、勝手にこうほざいていた。

「ね、もうお母さん訳がわからなくなってるからさ、昔の事だし。折檻していた事とかは、もう許してあげてよね。ね?」

私は瞬間的に頭に来て、『五月蝿い!私の気持ちをあんたが勝手に決めるな!』と叫んでいた。

そう簡単に、気持ちを整理できる訳も、はいそうですねと言える訳もない。

自分がそんな目にも遭っていないくせに、勝手にいい気になって余計な事を言っているのだ。

何も考えていないから、適当に無責任な事を言えるのである。


寄り添う事と、土足で人の心に上がり込む事は、天と地ほどの差がある。

その人となりを大切にしようとすれば、土足で上がり込む事なんてとても出来はしない。

これは、認知症の方や障がいの方に対しても同じ事ではないだろうか。


人は、自分の心を土足で上がり込まれたくないくせに、他の人の事は自分ごととして考えにくい生き物である。

自分への自戒の意味も込めて。

その人の常識、その人の価値観に少しだけ寄り添う気持ちだけを持てるように、一人ひとりがなれば、多様性を拒否しない世の中になるのではないかという投げかけをしておこうと思う。

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