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『目的意識』の正体。ーマナティの研究と東京という街を考えていて思ったことー

この前、TVでマナティという動物を研究している人の特集をやっていた。
その人はとにかくマナティが大好きで、朝から晩までマナティのことを考えて文字通り世界中を飛び回って研究していた。
そして、こんな事を言っていた。

「日本だけですよ。その研究は何のためになるんですか?って聞いてくるの」

なんだか、とても心に残った。

何日かして、ふとTikTokに山中伸弥教授のインタビューが流れてきた。
今はタンパク質の研究をしているそうで、教科書的に解決されたと言われている仕組みを本当にそうなのか?と明らかになりきってない部分を解き明かそうとしているという話の中でこんな事を言っていた。

「ただ、何の役に立つんですか?と言われたら、それはやってみないとわかりませんとしか言えないんです。全くわけ分からない研究がすごい大発見になることもあって、それが研究の醍醐味なんです」

私の中でマナティの研究とタンパク質の研究が繋がった瞬間だった。

ビジネスでは当たり前のように重要視されている『目的意識』だが、研究というフィールドでは、足かせになるような考え方なのかもしれない。
「ただ好きだから」「ただ分からないものを明らかにしたいから」という純粋な好奇心と探究心で突き詰めるからこそ、研究という先の見えない長い戦いを続けられるものなのかもしれないと思った。
「この研究は何のためになるのか?」という目的を考えた逆算思考は研究というフィールドの前では無力で、目的がないからこそ、突き詰めて行ったその先に世紀の大発見がきっとあるのだろう。

そう考えると、人には向き不向きがあるもので、ビジネスでは良しとされているマインドや思考が、違うフィールドでは全く役に立たないという事があるんだなと歳を重ねてよく思うようになった。
若い頃は視野が狭く、今いる自分の環境で活躍している人の考え方こそ正しいと思っていた節があった。少しは成長したのかな?

私が今やっている雑誌編集の仕事でも『目的意識』が邪魔になることがある。
何か分かりやすくアウトプットが変わるわけではないけど、でもこの細部にはとことんこだわらないと気が済まないという、ある意味無駄に見えるこだわりこそが、そのもののクオリティを最終的に底上げしていく場面を何度も見た。
編集デスクという立場で編集者を見ていて、「えーもう締め切りも近いんだし、そんな所にこだわっても意味ないのでは…」という言葉を何度も飲み込んだことがある。
どれだけ無駄でも、時間がかかっても、「自分から出ていくアウトプットは1ミリも妥協したくない」という人の方が、面白くていい記事をつくる編集者であるということを目の当たりにしてきた。

そして、そんなことを考えているタイミングで友達とランチしていて、東京という街の話になった。
東京という街で暮らすことが息苦しくなってきたという話。
友達の旦那さんは社会人になってから東京に出てきたという。
東京ではない街で暮らしたことのある人達にとって、東京は「何者かにならなくてはいけない」街であり、「何かのために生きなくてはならない」街だという。
東京生まれ東京育ちの私にもその感覚はどこか共感する所があった。

何者でなくたって、毎日ちょっとした幸せがあって、大好きな人が1人でも周りにいて、それだけでなんて素敵で幸せなことか。
でも東京という街は、何者かであることや、お金や時間を明確な目的のもと消費することを強要してくるような無言の圧力がかかる街なのだ。

そんな側面も分かった上で、なんだかんだ東京でしかほぼ暮らしたことのない私はそんな東京が好きなんだと思う。
東京タワーの上から見渡したキラキラとした夜景をみて、「あーみんな一生懸命働いてるんだな!私もがんばらなきゃ!」と思ったり、
みんなが少しだけ背伸びした雰囲気を纏ってる銀座や代官山を歩くのが好きだし、
朝、忙しそうに自転車の前と後ろに子供を乗せて必死で漕いでるお母さんにパワーをもらう。

もしかしたら活気と虚栄はセットなのかもしれない。
大きく見せたいという気持ちが人を元気にすることもまた真実なのだ。

何者かでありたい!これは何のためになるんだろう?という気持ちが、『目的意識』が、今の私を動かしているということに間違いはないけど、その気持ちが足枷になるフィールドだって場所だってタイミングだってあるんだってことを、分かっていることが大事なのだと思った。

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