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白い自由画、まんさくの花

牡丹がチラチラと東京でも初雪を観測した。一面雪化粧とはいかなかったが、夜の吹雪を足早に帰宅するなか、丸山薫の「白い自由画」という詩を思い出した。

某私立高校を受験の際、国語入試で出題されたこの詩になぜか感動して試験どころではなく、むろん見事に不合格だった。でもその代わり、生涯忘れない詩となった。雨に変わった夜半過ぎ、ひとり読み返す。これは詩人が代用教員として疎開先の山形は岩根沢に勤めていたときのものである。

「春」という題で
私は子供たちに自由画を描かせる
子供たちはてんでに絵の具を溶くが
塗る色がなくて途方に暮れる
ただ まっ白い山の幾重なりと
ただ まっ白い野の起伏と
うっすらとした薄墨の陰影の所々に
突き刺したような疎林の枝先だけだ

私はその一枚の空を
淡いコバルト色に彩ってやる
そして 誤って まだ濡れている枝間に
ぽとり!と黄色のひと雫を滲ませる
私はすぐ後悔するが
子供たちは却ってよろこぶのだ
「ああ まんさくの花が咲いた」と
子供たちはよろこぶのだ

終戦前後の物資にきわめて乏しいとき、「仙境」といわれたこの地はどんなに侘しいところだったか。しかし子供たちが絵の具を塗る色がないというのは、貧しくて絵の具がなかったからではなく(そう指摘するものもいる)、むしろ辺り一面真っ白の雪景色だったからではなかろうか。それはそのままタイトルの「白い」を承前し、作中の「まっ白い」と呼応しているように思う。つまり、雪の白以外、描く対象がそこにはなかったのだ。

そこに偶然黄色いまんさくの花が咲く。それを見た子供たちの喜びよう。むしろそんな黄色い笑い声のほうがまんさくの花ではないか。

まんさくの花とは、春の訪れを告げるために「まず咲く」ことからそう呼ばれていると聞く。季節ばかりではなく様々な春の到来を人は願うものだが、これを読むたびに私には彼の地から遠く子供たちの笑い声が聞こえてくる。それは真っ白の銀世界にあって、何より早い春のいとけなきあいさつ。


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