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皇帝の黄色い舌と西太后の最期


現代にさ迷い込んだ古典作家といわれたアカデミー・フランセーズ初の女性会員となった該博がいはくのフランス人作家のある短編では、現世をそれ以上の美しい世界に染め上げた老絵師とその弟子が、離宮の奥のさらに奥のかくまった現実を知らぬ若き中国皇帝に、それはあまりに実際と異なる嘘ではないかと咎められたのち処刑を命ぜられ、すると老絵師の描く翡翠の海が現実のものとなり、皇帝は青白い顔を蓮の花のように浮かべ死していくという、まさにこの世と思えぬ絢爛たる美しい色彩の描写があるが(私はこれほど美しいいわば絵画的散文を知らない)、例の科挙に通らなかった洪秀全こうしゅうぜんが自らを天王と名乗り中国全土で起こした太平天国の乱のさなか、英仏同盟軍による一方的な中国侵略の経緯、いわゆるアヘン戦争を調査した、イギリスのある作家が書いた記録を読んでいた。

遡ること3年前の1837年、シャプドレーヌなるフランス人宣教師が広西省の中国の役人によって処刑された事件が起こる。これは瞬く間にフランスに報道され、その一部終始のきわめつけに、すでに絶命した宣教師の胸を処刑執行吏が切り裂き、心臓を抉り出して釜で煮尽くしたというものがあった。これは英仏のタカ派好戦派にとっては降ってわいた願ったりの口実となり、ここに英仏共同作戦という列強がしのぎを削っていた時代にあって稀有の「見世物」が、実際この作家は「見世物」という言葉を使っている、展開したというわけである。

英仏連合軍が中国本土で実行した各作戦のこと、ヨーロッパから見れば精神的物質的に劣等人種と、この作家は「劣等人種」という語を使っている、そう見なしていた中国人が受けた打撃と生活の破壊、その勝利は明らかであったにもかかわらず力づくに迫った連合国に対して、古来恭順を示すべく貢物を捧げ、天子の前で使者は何をすべきかという中国の伝統的作法の手続きに腐心した皇帝軍によって講和が遅々として進まず、業を煮やした英仏の兵士が、皇帝が隠遁した、万里の長城を越えた先にあった、劣等人種では造るべくもない人為と自然とが見事に調和した楼閣ろうかくの極みのような離宮をすべて灰に帰せしめたこと(司令官はじめ兵士らの目にはこの壮麗な眺めは挑発に映ったことは確かである)、未来永劫支払い不可能な賠償金の代わりといっては清朝の命脈を保つことを約束し、その手始めに太平天国の乱をくじき、皇帝が着るべき黄色の、王の象徴かつ守り神であった龍の刺繍が施されたほうを着たまま側溝そっこうにうつぶせになっていた、首謀である洪秀全を自死に追いやったことなど、夜を徹して三日三晩も読破するのにかかったおよそ150ページにわたるその戦況についてはここには書ききれないが、若くして水腫に蝕まれ、自らの帝国がえびすに押し込められているのを見ながら亡くなった咸豊帝かんぽうていのあと、当時まだ5歳であった同治帝どうちていの実の母として親政という名の権力を思うがままにした西太后の言葉に、私は目が留まった。

この同治帝は、権力支配その一点のためだけに伝統を重んじた、いわば保守でもあった母の西太后に反目する政策を打ち立てようとしたが、18歳にして天然痘にかかり、もっともこれは遊郭でもらってきた別の病気だともいわれているが、早世に伏した。ちなみに、このイギリスの、アルジャーノン・スウィンバーンの伝記を発表した歴史家はそう付け加えている、17歳の正室はそのすぐあとにアヘンを大量に飲み帝のあとを追ったとされ、雲井花苑たる若き后はこのとき臨月だったとのちに分かったという。表向きは癒しがたい悲傷の果ての行為だとされているが、しかしじつは西太后が自らの摂政権力を維持するがために排除したのではないかと、実際にこの作家は「排除」という単語で表現している、その疑問は払拭できない、というのである。

同治帝亡きあと、西太后は家系図的には甥にあたる2歳の光緒帝こうしょていを即位させるが、これは厳密な儒教の掟によれば、その資格なしとされ伝統にもとるものであったが、ここに必要とあらば自ら殉じた伝統保守をも踏みにじる西太后の深謀がみてとれる。同治帝と同じようにして、やがて若き皇帝光緒帝は改革派に傾向するようになる。ときの中国が、正確な数はいまだ算出されていないとされるが、その数数千万人という死者を出した旱魃かんばつと凶荒に見舞われていたときである。が、ここでもその注文は西太后によって取り消しになってしまう。あの有名な紫禁城の近くの湖上にある宮殿に光緒帝は幽閉され、さらには政治全権を西太后に委任する旨の文書の調印を余儀なくされた、というのだ。不老不死の霊薬として信じられていた真珠をった粉を毎朝飲んでいたという西太后だが、一方では西洋医学、とりわけ外科的な知識に通じたしゅ医師が監禁された光緒帝の死の所見を書いている、死の所見とは、この作家が実際に使った文句だが、それによれば、光緒帝は慢性的な頭痛、腰痛、腎痙攣、光と音への極度の過敏、肺機能の著しい低下、重度の鬱病に失脚このかた患されていた。朱医師によれば、最終的な死因はブライト病なる腎疾患だとしているが、その他特筆すべき所見を記している、紫がかった青白い顔に、黄色くなった舌、という症状である。さらに、その離宮の床や家具調度にはおびただしい埃が積もっており、この医師によれば、そこにはこの帝以外住人も世話人もなく、帝は一人世を去ったのではないかと記している。この記録を読んだ私は、あるいは冒頭で言及した老絵師によってそれは美しい顔を水面に蓮とともに浮かべた皇帝が、ともすれば37歳という若さで生涯を閉じた、孤独と病苦に苛まれたこの光緒帝だったのではあるまいかと思えたが、その確証はない。

権勢を誇り、それへの手段が大仰になればなるほど、そして手中にした権力が絶対になればなるほど、それを失いはしまいか、あるいは奪われはしまいかと不安が募り、いやましに強権的になるのは歴史上数多の例がある通り、この西太后も例にもれなかった。そうした不安に押しやられ不眠症になったこの女帝は、夜な夜な宮廷庭園をあてもなくさ迷い歩き、何よりも人工物を愛でた人らしく、広間の大鏡に映った北側に位置する湖面をずっと眺めて過ごしたという。さらに、この詳細なアヘン戦争前後の中国史をものした作家は書く、西太后は何よりも蚕を愛していたという。おのれの紡いだしなやかきわまる糸と引き換えにその命を落とす蚕は、新鮮な桑の葉をむ以外、音も立てず、死も辞さず、絹を産み出すという定められた目的以外脇目をふらない。まるで言うこと聞かない帝国の人民や、宮廷の宦官かんがんらと天と地の差だ、というのである。奇しくも光緒帝が亡くなったその翌日、御前ごぜん会議に顔を出したあと、侍医にいさめられていたクリームがけ山林檎を2つ頬張り、その日の夕方赤痢を発症して危篤となり、権力と実権に魅せられまたそれによって支配された長い生涯にあっけなく幕を降ろした。

その最期に、西太后はこう述懐したといわれている。

歴史とは不幸と悶着ばかり、岸辺に寄る波のごとくに押し寄せてはまた押し寄せる。この世に生ある限り、不安を拭えるときはいっときたりともやってこない、と。

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